平成十八年度中世史部会発表概要

平氏政権成立論―在地の動向とその統制策を中心に―

1.はじめに
鎌倉幕府成立によって武家政権が成立したということは、つとに言われてきたことである。平氏政権とはこれまで鎌倉幕府につながるその前段階としてとらえられてきた面が大きいと思われる。たしかにそうした面でとらえることはたいへん意義のあることだと思われる。だが、それとは別に、その政権そのものを後へつながる何かとしてではなくそのものだけを見ることも重要であると考える。そこで、今回改めて平氏政権とはいかなる政権であったのか、またなぜわずかな期間しか保てなかったのかを明らかにしていきたい。

2.清盛以前
 平氏は祖父の正盛、父の忠盛の代から院に近づき、院司や院近臣になっていった。院の側もかつてのように土地を支配できなくなったので、平氏を利用して政権を維持していった。つまり、お互いに不可欠の存在であったのだ。
また平氏は正盛の代から在地に自分と結びつきが強い人物を配置し、さらにその人物は、その地域において有力な人物であった。その土地に自分の直属の家人を通して支配していったのだ。

3.院政期の土地支配と平氏
 本章では、院政期の土地支配の概要と、平氏の関わりについて述べていきたい。
まず、土地支配に関して述べる前に、院近臣に関して触れておくが、3章で述べたとおり、平氏は院に取り入ることによってその勢力を伸ばしてきた。そして、清盛は院近臣の一人として院に仕え、次第に側近としてその地位を向上させていった。
院近臣には大きく二つのタイプに分かれる。大国受領型と、実務官僚型である。前者は大国の受領を歴任し、院に対する経済奉仕を行っていた。そのため、荘園の管理が忙しく、政治の中枢には関わられない者がほとんどであった。後者は、実務や有職に優れる者で、院司として院庁に残り、事務処理やさまざまな伝奏を行っていた。平清盛は、大国受領型と実務官僚型の両方にあてはまり、後白河院の側近として、受領としての奉仕と、院司としての職務によりその地位を向上させていった。これが後の平氏政権誕生への礎となっていくのである。
院政期には許可無く立証された荘園が増大し、何度も荘園整理令が出されるも、効果が無く、統制できないでいた。朝廷はこれに対し、10世紀初頭に院宮分国制を採用した。これが有力貴族たちにも広まり、知行権を得た国主として、その収入を自らの得分としていった。院政期の後半には院が近臣達を知行国主として任命し、他の貴族にも公領の収益を与えていったため、大きな転機を迎えた。これにより院に取り入ろうとする者が増え、知行国の数も急増し、知行国制は全国規模で成立していくに至った。平氏もまた、最大時は30ヶ国以上の知行国主となっていた。この一環の動きは、結果として院の権威を向上させる結果となった。

後白河院は、天皇在位時であった保元元(1156)年に保元新制を発布し、日本全土は天皇の土地であるという王土思想を強く主張し、天皇を頂点とした荘園の統制を目指した。それと同時期に、知行国制を背景に受領たちは知行国内の郷を荘園化し、院や女院にこぞって寄進をしていた。また、後白河院は荘園の新立を容易に認めたため、荘園形成は加速し、荘園が多数設定されることとなった。そして、保元新制により、自らを荘園公領制の頂点と定めた後白河院の治世において、荘園寄進の動きは最も活発な時期であった。

4.安芸国衙支配
安芸国は、平氏が三代にわたり国司を務めていた国である。この国で平家と結びつきの強かった人物に厳島神社神主佐伯景弘がいる。彼がこの国の支配に関して重要な役を担っていた。それは承安三年(1173)に国司が、尾越村の中にある荒野・本田・在家を神領の別府として、官物納付・万雑公事を納める責任者にすることを認めたところからもわかるであろう。ここでの国司庁宣・国府の中に景弘が地頭として名前が見える。この地頭に任命させた主体は清盛だと考えられる。(田中文英1975)では何故地頭という職が必要になったのであろうか。それは、権力の多元的係争地にあり、それぞれの権力を真正面から否定することを避けるために、今までとは違う新たな職として地頭職を設置したのである。さらに地頭職は、少なくとも治承三年(1179)年を境に制度的改編があったことも伺われる。以前は、国司が領地権と地頭としての地位を前提として官物納付の責任者として承認した。以後は、地頭という明白な職の形態。国司による補任の対象となっていった。また、安芸国では、八条院領にも深く関わりがあった。平氏と婚戚関係を持ち、平氏政権でも重用される。平氏も八条院庁を構成する一角であり、王家領荘園形成の主導的立場であったと思われ、預所職を同院庁内有力貴族へ提供することにより中央での勢力拡張を行った(畑野順子2005)

5.平氏政権の荘園支配
正盛以降の平氏は院権力と密接な関係を築き、院への寄進等によってその所領を獲得して領家や預所職を中核に支配をおこなった。特に清盛期には後白河院領集積の風潮を利用することにより平家領は膨大な数へとなっていくがこの際に知行国の協力が大いに役立った。平氏知行国は保元の乱から平治の乱の間と治承三年に急増するが、このふたつの膨張期に挟まれた時期に平家の荘園所領は大幅に増加する。これは知行国にかわる経済的基盤の拡充が荘園所領に求められたためである。
 平氏一門の知行国・荘園は清盛家政所の家司が目代となったり、荘園管理を行うなどしている。仁安年間に清盛が出家して福原に退くと他の一門が公卿に昇進したことなどから各自の政所が所領経営をおこなうようになる。
平氏政権は政所を通じて荘園支配を行い、家人の活用や知行国主との結びつき等を利用し勢力の拡大を図った。その際に摂関家や知行国主との婚姻関係も最大限に利用した。また自己の勢力拡大のみでなく、有力貴族への預所職提供や地方寺社勢力の保護等にも配慮を示すことで政権確立の布石としていた。しかし領主制確立を望む在地領主の不満は大きかった。その対応策として家人や友好的な在庁官人を使い、最終手段としては御教書や追討使を送るといったことをした。だがこれら在地勢力の掌握が不完全だったことが政権崩壊の大きな要因となったのは間違いないだろう。

6.平氏政権下の坂東
相模国では一在地領主にすぎない大庭景親が国衙を介せず一国規模で軍事編成を行っている事実がみうけられる。これは、坂東侍奉行(藤原忠清)→国奉行という図式が成り立ち後の守護制度の先駆体系の可能性がある。(野口実1982)坂東武士団にとって、何よりも欲するところは本領の安堵確定で、平氏はそれを成し遂げられなかった。しかし、頼朝の挙兵に際して一国に必ず平家方として積極的な行動をとる武士団が一個は存在していたという事実がある事から見て、八箇国侍奉行の下に各国毎に国奉行的機能を果たした武士が存在していた。
以上の事などから坂東は平氏による支配体制が確立しつつあったのであろう。

7.平氏政権
平氏政権の時期区分について、これまで様々な研究がなされてきた。全ての説に共通するのは、治承三年のクーデターに着目していることである。そこで私は、平氏政権を大きく二つの時期に分けて考えたいと思う。治承三年以前と治承三年のクーデター以後である。それぞれの時期についていえることは、前期は、後白河との連立政権で、後期は平氏の専権体制であるということだ。
前期
前期で大きな節目となったのが、仁安二年(1167)であろう。この年は、後白河の宣旨により、軍事・警察上の支配権を重盛に与えている。このことは、清盛の嫡男として家督相続を意味している。さらに、翌年には、清盛の妻の妹を母に持つ、高倉天皇が践祚した。後白河院は、重盛に軍事支配権を任せたことで、平家を国家的軍制に編成した。(五味文彦1979)
後期
後期の節目となったのは、治承三年のクーデターであろう。これにより清盛は、後白河院政を停止して、高倉親政を開始させた。この高倉親政により、平家の専権体制が誕生したといってよいのではないだろうか。つまり、連立政権から専権体制へと移行したのである。私は、ここを以って平氏政権の成立としたい。しかし、この専権体制は、高倉天皇の死と共に終わりを告げる。高倉の死後、再び後白河院との連立政権になった。
 総官職設置
治承五年(1183)正月、畿内近国ならびに、近江・伊勢・伊賀九カ国の総官職に平宗盛が補任された。これは、あきらかに前年の東国の反乱に対応するためのものであった。この総官職設置により、地域的軍事力を作り出したかったのではないかと思われる。
平氏は、在地の者たちを積極的に自分たちの支配機構へと編成していった。平氏は、在地の者たちをうまく自分たちの権力下に統制し、そして平氏政権は「総官職」を生み出すに至った。清盛はこの総官職を生み出し、そしてみまかった。彼の死後は、平氏は新しいなにかを見出すことはできず、滅亡の道を辿っていった。

8.まとめ
平家は祖父の正盛、父の忠盛の代から院司・院近臣となり、院の下で積極的に在地の者たちを掌握していった。このことは、清盛の代でも変わることなく進められていった。とくに、また在地を掌握する過程は、清盛の主導で行われていたことがわかる。しかし、忘れてはならないのが、支配機構の中から外れた者たちもいたという事実である。この問題は、内乱が激化するにつれ大きな問題となり、平家滅亡の一要因となったのだ。権力機構から外れた者たちをうまく統制できなかったところに、平氏政権の弱点があったように思われる。後白河院との関係も清盛の主導で行われていた。清盛は、その特別な立場から常に政治の中枢にいて、後白河院との合議制をとっていた。それがにわかに崩れて、専権体制になったのも清盛の行動であり、発案であった。遷都に関しても反対を押し切り実行した。政権末期には、総官職なる新たな職をも誕生させた。また、東国の支配に関しても、国衙を介することなく清盛を頂点とする統制ができていた。こうしてみると、平氏政権とは、上横手氏の言われるとおり「清盛の政権」であったようにおもわれる。しかし、そうなってしまった一つの要因は、嫡男重盛の早世であろう。清盛は、早い段階から重盛に権力を譲る形をとっていた。重盛の死がなければ、平氏政権はまた違った展開をみせたかもしれないのだ。重盛の死が平氏政権を清盛の政権にしてしまったともいえるのではないだろうか
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