平成18年度若木祭研究発表
 
        古代東北地域に於ける交易環境としての城柵

序章 はじめに
 
第二章 研究史
 
第三章 城柵の歴史的前提
 
第四章 城柵の地理的前提
 
第五章 城柵における交易としての朝貢・饗給
 
おわりに
 
序章 .はじめに
 
律令国家の時代古代東北地域を統治することを目的とした施設の建設が始まった。その施設こそ城柵である。
城柵は蝦夷支配を行うための軍事的側面を持つと共に、通常の国府と同様、官衙的要素を併せ持ったため特異な政治施設の一つとされている。近年では城柵を研究していくにつれて、経済的側面にも注目され始めている。
今年度の古代支部会では、改めて経済的側面に注目し、古代東北地域社会の実態解明をその姿からアプローチしていく。
 
第二章 研究史
 
戦前から1960年代ごろまで、城柵は軍事施設としてその機能を推測されてきた。しかし、1970年代に入ると工藤雅樹氏の城柵官衙説という城柵の実態を軍事施設ではなく国府・郡衙と同じ地方官衙と同じものという説を発表し、それに対する批判・発展継承意見が出た。それが、平川南氏の城柵制を郡制の前段階と位置づける。その根拠として国司が駐在し「準国府的性格」を持つことを挙げて城柵を「極めて高度な政治支配方式の一つ」と提唱している。今泉隆雄氏は、国司が駐在することに着目して城司制で職員令大国条の特別な職掌を行った事実から中央は兼官である城司が駐在していたことから城柵を「国府機構の分身」と位置づけている。さらに、熊谷公男氏は、支配基盤となった柵戸と城柵を構成する要素である、政庁の「コ」の字型配置に着目して、駐在していた城司が天皇の神的権威を担い政務を行う場であると提唱し、蝦夷との朝貢・饗給を強く意識した意見を唱える。
また、1990年代以降は北方交流史の影響を受けて交流の側面も盛んに研究されるようになる。そこで登場するのが、1970年代でも紹介した今泉氏は朝貢・饗給は贈与交換の側面を持つと提唱した。また城柵での朝貢・饗給が国府交易で大きな役割を果たしたことを提唱した竹森友子氏、カール・ポランニー氏の提唱した交易港の概念を適用して、城柵を国家が交易を一元的に集約するためのものとしたのが蓑島栄紀氏である。

第三章 城柵の歴史的前提
 
城柵が地域の交易センターとしての機能を担っていたことはいうまでもないが、その城柵が造営される前にその機能を果たしていたのが、当時北上川の河口部にあった新金沼遺跡と中流域にあった中半入遺跡である。ここからは古式土師器や続縄文土器、関東・東海地方の土器や黒曜石が発見されていることから交易センターとしての機能を推測することができる。また、関東系土師器の出土はこの地に柵戸(関東地方の移民)がいたことを示し
拠点集落のへの点的移住→本格的移住→官衙造営→城柵造営という過程が見えてくる。
さらに、城柵が盛んに造営されるようになった7世紀から9世紀までを八木光則氏は段階的に区分しており以下のとおりとなる。
第1段階 650〜660年前後 
渟足柵・磐舟柵、郡山U期官衙の造営
第2段階 720〜730年前後
多賀城・秋田城・天平の五柵の造営 多賀城・秋田城は奥羽両国府として造営
第3段階 760年前後
桃生城・雄勝城・伊治城の造営
第4段階 800年前後
胆沢城・志波城・払田柵・城輪柵の造営 
奥羽両国府の整備改造
さらに、9世紀中ごろまでに多賀城・玉造柵・胆沢城・城輪柵・払田柵・秋田城の6城柵に整理統合される。
この歴史的前提から古墳時代からの交易ネットワーク機能を継承し、朝貢を受けいる官衙としての再構築が行われ、北方世界との一定の関与がみられる。
 
第四章 城柵の地理的前提
 
どの段階のどの城柵も、共通していえることは立地として北上川・雄物川、日本海・太平洋の隣接するところにあり、水運の便を重視していることが挙げられる。第4段階で挙げられていた胆沢城・志波城・徳丹城に至ってはわざわざ水害の影響を受けることをわかっていて運河を城内に引き入れていることから水運の便を重視していることは明白である。
また、丘陵地帯に造営されている城柵があることから対蝦夷の防備性も重視していたものとも考えられる。例として、第3段階で造営された桃生城・伊治城・雄勝城は全て丘陵地帯にあり、その立地のために官衙的要素が消失している。この歴史的背景としては、この時期のすぐ後に蝦夷との38年戦争があったからと考えられる。
 
第五章 城柵における交易としての朝貢・饗給
 
城柵の機能として、蝦夷との朝貢・饗給をしていたことが挙げられる。
この章ではその記録を文献史学の視点から見ていくこととする。
朝貢・饗給の基本的性格は『令集解』の職員令大国条にあるが、朝貢を蝦夷が朝廷に服属するものとしての表れとみなし、饗給は蝦夷に対する懐柔策と位置づけている。これは蝦夷支配の一つの例である。また、城柵への朝貢の記録として『続日本紀』には郡山遺跡U期官衙の方形池で朝貢が行われたことが記録されている。このことから蝦夷の城柵への朝貢は7世紀末以前からと推定される。
さらに、城柵での国司による、国府交易と私交易を規定するものまた、その様子を記したものとして『延喜式』・『類聚三代格』・『類聚国史』が挙げられる。その内容から、朝廷にとっても蝦夷にとっても朝貢・饗給は有益なものであったことがわかる。
 
おわりに
 
以上のような考古学および文献史学の研究をCrossoverさせることによってできた研究でわかったことは城柵で行われていた交易は集団の存続に不可欠な物資・技術の過不足を補うためのものだった。6世紀後半まで、関東、北陸地方の首長層は必需物資を得るために北海道・東北地方の住民と自立的な交流をなしており、中央はこのネットワークを媒介として北方社会の産物を入手していた。このような歴史的前提と、雄物川河口に設置された秋田城を一とする多くの城柵が河川または海沿いといった交易に適した地域に設置された地理的前提が城柵の「交易環境」を作り上げた。
そして、城柵の設置によって当該地域に明確な協会が現出した。城柵造営前段階までの古墳文化・続縄文文化がモザイク状に交じり合う境界領域(俗に「ボカシの地域」とよばれる地域)を窓口とした、互恵的ネットワークを介しての交易システムは中央の支配システムの外延に取り込まれた。そのような中において出現した城柵という自称は北方社会との交流を一元的に管理・掌握することを目指すものであり、各地域社会・首長層の自立的活動に基づく北方との多様な地域間交流は抑圧され、城柵に集約されていた。この現象を城柵を通じた中央ー地方ー周縁の関係の出現と結論付けるにいたる。


(文責 M.I)



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