平成十七年度東洋史部会発表概要

煬帝の高句麗出兵

はじめに
第一部(作成中)
第二部
【第一次遠征の詳細】
1、遠征までの過程
2、戦闘の詳細
3、遠征がもたらした結果
【第二次遠征と楊玄感の反乱】
1、第二次遠征
2、楊玄感について
3、楊玄感の乱まで
4、反乱の詳細
【第三次遠征と煬帝の最期】
1、第三次遠征
2、遠征後の煬帝
3、煬帝の最期
4、その後の宇文化及
【唐の台頭】
1、李淵について
2、李世民等による李淵の太原起義
3、煬帝の死後と唐の中国統一

星はじめに

所謂「中国史」と呼ばれる分野において隋唐両朝は「世界帝国」ということ言葉によって形容される。それは、主として唐朝前半期が中国本土に止まらず、東南アジアや中央アジアに跨る広大な地域を支配し、文化的にもインドやイランの文化との融合が見られたこと、周囲の国々で律令国家が形成されたことなどに由来する。それらは、中国世界の統一者としての隋の成立と、その二代皇帝煬帝のとった政策に深淵を求めることができ、同時に、長安の繁栄に代表されるように名実共に「世界帝国」となった唐朝とそれを中心とする国際環境も、煬帝の路線とその帰結としての高句麗出兵の失敗がなければ有り得なかったと思われる。
そこで、本年は中華世界の分裂に終止符を打った隋朝の成立とそれによる国際環境の変化、そして、その中で隋朝滅亡の引き金となった高句麗出兵がどのように行われたのか考察し、それにより、何故隋朝が「世界帝国」と呼ばれるに至ったか説明していきたい。

星第一部(作成中)

星第二部

【第一次遠征の詳細】
《1 遠征までの過程》
 隋の煬帝は大業三年(607)、隋と東突厥の国境地帯にて東突厥の可汗(当時の北方民族の首長号)であった啓民可汗の下へ行幸した。
啓民は煬帝とテントで面会する事になっていたが、煬帝の家臣がテントの地面に生えた雑草を啓民に抜かせ、煬帝が去る時に絹20万段を下賜した。
この事から、この行幸の目的は隋の富と権力を誇示と、《隋>突厥》の君臣関係の確認であったと思われる。
 然し、実はこの時、高句麗の使者も啓民と共に煬帝と面会する事となった。
高句麗が東突厥へ使者を遣わし、偶然にも煬帝の到着と高句麗の使者の到着が重なったのである。
新の王莽を始め、歴代の中国王朝は高句麗とは不仲である場合が多く、特に北朝の王朝との仲が悪かった。
隋と高句麗との関係も同様であり、文帝の頃から極めて険悪であった。
隋の領土の侵略や、朝貢国の新羅と百済への圧迫は煬帝にとって甚だ面白くない事態である。
恐らく啓民は隋と東突厥との対立は知っていたのだろうが、それでも敢えて使者を隠す様な事はしなかった。
こうして使者は煬帝に拝謁する事となった。
因みに何故、東突厥の下に高句麗の使者が来ていたのだろうか。
中国、韓国両側の史料には見られなかったが、当時の高句麗は隋、新羅、百済等の敵国が多く、それが故に少しでも味方、後ろ盾を増やす為に東突厥との友好関係を築く事を考えたのではないか。
 煬帝の側近の一人である裴矩が高句麗の使者を見て、高句麗の日頃の無礼を煬帝に訴え、「脅して入朝せしむ可し」と進言した。
煬帝は高句麗の使者に「いやしくも或は朝せずんば、将に啓民を率いて往きて彼の土を巡らん」と言い、高句麗王に伝えさせた。
然し、高句麗の嬰陽王はそれからも4年もの間1度も隋に朝貢しなかった。
業を煮やした煬帝は大業七年(611)、高句麗遠征の詔書を下して国を挙げて準備させた。
隋国内のほぼ全ての兵を現在の北京に集合させ、一方では遠征用の軍船130隻を造船させた。
造船に従事した者達は過酷な重労働を強いられ、全体のうち3〜4割が死亡したという。大業八年(612)、煬帝が高句麗への遠征を実行した。113万3800人の兵を率い、
200万人と号して高句麗へと出兵した。
ところが、史料には兵数の詳細の後に「其の餽運する者は之に倍す」と記載されている。
解釈すると、遠征軍の兵数は約113万人だが、物資の輸送等で使役させられた者が遠征軍の倍の約220万人いた事となり、つまり、事実上遠征に従事していた人数は約430万人という事になる。
これは当時の中国の総人口の約11分の1に値する。

《2 戦闘の詳細》
―開戦〜遼東城攻略―
 遠征軍が先ず超えなければならなかったものは遼河(遼水)であった。
遠征軍は浮橋を造り、それを遼河に掛け、突破しようと画策した。
然し、一度目は高句麗軍の妨害により失敗。二度目は成功し、その勢いに乗じて遼東城を攻め、これを包囲した。
その後は籠城戦となり状況も硬直した。煬帝は包囲している将軍達に、もし、遼東城が降伏すれば丁重に扱う由を伝えた。
後に旗色が悪くなり遼東城が陥落しそうになり、場内の人々も恐怖や飢えの余り降伏を願いだした。
そして遼東城は遠征軍に降伏を乞う事にした。
先程の勅令を受けた将兵達は遼東城の包囲を解いた。
然し、この時を利用した遼東城の兵は守備を再編制した。
そして、煬帝が降伏の情報を聞き、遼東まで到ると既に遼東城の体勢も整い、遼東城自らが降伏を反古とした。
煬帝は怒り、隋の将兵を脅迫したが効果が無く、結局、煬帝の撤退まで高句麗はこの城は守り抜いた。

―平壌城攻略―
 遼東城を攻略していた間に、隋の将軍の来護児は水軍を率いて、現在の渤海にて海戦が行われた。
来護児は高句麗軍に大勝し、この勝ちに乗じて平壌城攻略を計画した。
この事に従軍していた周法尚が来護児に他の軍隊が自分達に追い着くまで待機した方が良いと忠告したが、来護児は聞き入れなかった。
やがて来護児は平壌城を包囲したが、この時、平壌城内の高句麗軍は場内に伏兵を忍ばせた。
来護児を場内に誘き寄せる為に平壌城外では偽って負け、場内に逃亡した。
来護児は場内へ逃げた高句麗軍を追跡し、場内に侵入した。
来護児軍は城内で略奪を始めたが、そこを伏兵に急襲され、大敗した。
先程の周法尚が沿岸で来護児の帰還を待って待機していたので、高句麗軍はこれ以上を深追いはしなかった。

―乙支文徳追跡〜撤退―
 高句麗は大臣乙支文徳を隋への降伏の使者として隋の陣中へ遣わした。
然し、その降伏はあくまで偽りの降伏であって、本当の目的は隋の内部調査であった。
始め、隋の将軍宇仲文は乙支文徳が来た場合は捕縛する事を考えていたが、他の将軍がこれに反対したので結局、乙支文徳が帰る事を許した。
然し、後で後悔し、乙支文徳を陣中に呼び戻そうとしたが拒否された。
そこで宇文述と宇仲文は乙支文徳を追跡したが、以前からこの二軍には食糧不足という問題が生じていた。
宇文述達は戦に使う道具は勿論、100日分の食糧を自分の兵自身に持たせていた。
宇文述軍は重さに耐えられずに自分の食糧を次々と捨て始めた。
食糧を棄てた者を死刑に処すと軍令を下したが、効果が無く、遂には高句麗に到る頃には食糧不足へと陥ってしまった。
そこで宇文述は乙支文徳を諦め、引き返す事を提案したが、宇仲文は承知しなかった。
宇仲文は煬帝に自分の案を進言し、煬帝がそれに賛成した事によって引き続き乙支文徳追跡が続行された。
宇文述はやむを得ず、これに付き従うしかなかった。
乙支文徳は自分を追う宇文述軍の士気の低下を察知し、更に疲弊させようと試みた。
一日に7回も戦いに挑み、全てを宇文述に勝たせ、平壌にまで誘き寄せた。
一方、高句麗は群議を開き、平壌付近に軍営を造る事が決議された。
これから平壌に来る宇文述軍を包囲する為である。
そして平壌を近くにして乙支文徳は降伏を乞った。
宇文述は自分の兵の疲弊が激しいのを見て、そして、平壌城もまた堅固であり、宇文述軍
の今の兵力では抜き難いのを察知してその降伏を受け入れた。
宇文述は直ぐに帰還しようとしたが、平壌付近に置かれた軍営から別の高句麗軍が出陣し、乙支文徳と共に宇文述を四面に包囲した。
宇文述は逆に高句麗に追撃される事となり、鴨緑江に到るまで高句麗軍は逃げる宇文述を攻撃し続けた。
主にこの三つの戦いによって隋は甚大な被害を受ける結果となった。

《3 遠征がもたらした結果》
 第一次遠征時に遼河を渡った兵数は約30万5000人とあるが、実際に帰還した兵数は約2700人だった。
つまり、少なく見積っても30万人以上の遠征軍が隋に戻らなかった事になる。
このうち、何割が戦死したのかは定かではないが、この未帰還者の中には後の楊玄感の乱や、李淵の太原起義に付き従う者もいた。
 この遠征によって竇建徳による大きな反乱が発生した。
孫安素という士卒が遠征軍徴発の為に招集することを命じられた。
然し、それ以前に山東半島は水害による被害が酷く、この水害によって孫安素の妻子が死亡した為に、遠征軍を辞退しようとしたが、県令はこれを許さなかった。
孫安素はこの県令を殺害し、遠征軍200人の隊長に任命されていた竇建徳の下へ逃れた。
以前から高句麗遠征を行う事に不満を持っていた竇建徳は兵を集い、孫安素を将軍にして反乱を起こした。
孫安素は後に戦死するが、竇建徳の勢力は唐に降伏するまで、長きに渡って拡大し続けた。

【第二次遠征と楊玄感の反乱】 

《1 第二次遠征》
翌年の大業九年(613)、煬帝は高句麗に敗北したことに納得がいかず、二度目の遠征を決意した。
このとき、家臣の郭栄は遠征に反対したが、煬帝に聞き入れられなかった。
遠征軍は高句麗の新城(現、遼寧省)に到り、20日間に渡り籠城戦を行ったが陥落させることか出来ず、しかもこの間に楊玄感の乱が発生した。
この報告を聞いた煬帝は急遽、遠征軍に撤退を命じた。そして、その遠征軍を直ちに楊玄感の鎮圧へと向かわせた。

《2 楊玄感について》
 楊玄感とは、文帝の頃からの重臣楚国公楊素の息子である。
楊素は特に中国統一に貢献し、南朝陳の軍隊や残党を無敗で破ったという功績があった。そんな楊素も次第に煬帝に疎まれてきた。
煬帝は即位後に文帝時の側近達を自分の帝位を脅かすものとして次々と暗殺していった。煬帝の兄弟親戚も些細なことを口実に付けられては失脚や暗殺の対象とされた。
その様な当時の背景から自身の危険を感じたからか、楊素は「朝宴の際、或は臣の礼を失う」ことを決意した。
即ち、煬帝の左右から辞退したのである。
 楊素の死後、息子の楊玄感は生前の父への冷遇と、煬帝の日頃の傍若無人な振る舞いを見て、一族と共に煬帝打倒を企て始めた。
実際、吐谷渾遠征時に楊玄感は煬帝殺害を計画したと『隋書』楊玄感伝にはある。
然し、その時は一族の者に止められ、謀反を実行するには到らなかった。

《3 楊玄感の乱まで》
 第二次遠征時、楊玄感は永済渠に接する黎陽において物資輸送の監督に任命された。遠征中、楊玄感は任務である物資輸送を意図的に行わなかった。
遠征軍の食糧不足を招く為である。
そして、偽りの使者を遣わして「護児反す」という嘘の情報を流した。
因みに「護児」とは第一次遠征時に水軍を率いていた来護児のことである。
楊玄感は来護児鎮圧を大義名分に黎陽にて挙兵した。
先ず、黎陽付近にあった輸送用の食糧庫を襲い、その時、楊玄感は自分に与する兵に対して煬帝の暴政を訴え、この反乱が煬帝の無道を断罪する為のものであることを宣言した。これにより兵達は万歳を唱えて反乱に賛同し、以来、楊玄感に付き従う者が増大していった。

《4 反乱の詳細》
 先ず、楊玄感は長安にいた友人の李密を呼び寄せた。
李密は楊玄感と同じ様に武川鎮軍閥の子孫である。
元は隋の役人であったが、煬帝や宇文述との関係が悪化したことをきっかけに辞職した。
その後、楊素との出会いから楊玄感を知り、以来、二人は深い親交を交し合った。
その李密が来るや、楊玄感は李密を謀主と為した。これからのことを問われた李密は楊玄感に次の3つの策を建議した。

(1)遠征軍の帰路と食糧を絶ち、戦わずして捕虜にする(上策)
(2)長安を制圧し、城中の家臣達を取り込み、煬帝の力を削ぐ(中策)
(3)長安より近い洛陽を制圧する(下策)

このうち李密は(3)を最も確実性の薄い策とした。
洛陽は黎陽から近く、既に楊玄感の乱の報告を受けている可能性があると李密は警戒していた。
実際「唯恐る。唐緯之を告げ先づ已に固守せんことを」と史料ある。然し、楊玄感は(3)を採用した。
「今、百官の家口、並に東都(洛陽)に在り。若し先づ之を取らば、以て其心を動かすに足らん」つまり、洛陽には隋の家臣の家族が多く住んでおり、もし洛陽を落とせば、家族を人質にし、隋に対して優位に立つことが出来るという考えであろう。
因みに、(1)は李密が最も薦めた策である。
食糧と交通路は永済渠を監督する楊玄感が既に手中に収めており、これらの条件を利用して遠征軍を一網打尽にすること狙ったものである。
何故、楊玄感は(1)を採用しなかったのか。
隋には朝貢国の突厥の援助を恐れたのか、又は遠征軍の規模では如何に食糧不足であろうとも適わないと楊玄感は思ったのであろうか。
第二次遠征時の遠征軍の兵数は史料には記載されてはいないが、100万とは言わずとも相当の数を率いていたと思われる。
洛陽攻略前の楊玄感はまだ5千の兵も所有していなかった。
如何に有利な立場であろうとも数十倍の遠征軍を戦わずして捕虜にすることなど考えられなかったのではないか。
(2)の家臣達とは恐らく主に武川鎮軍閥のことであろう。
宮崎市定氏が言うように、煬帝は北魏から北周まで延々と受け継がれてきた武川鎮軍閥の団結を破壊した。
暗殺された側近達の中には武川鎮軍閥出身者が多く、李密や楊玄感、そして後の高祖である李淵も武川鎮軍閥出身者であり、煬帝に敵視、又は軽視されてきた。
しかも煬帝は江南の六朝文化を好み、鮮卑族である彼等は不満を感じていた。
そのような彼等の不満に付け込み、同じく軍閥出身者である楊玄感が取り込むことによって勢力伸張と煬帝の弱体化を図ろうとしたのであろう。
長安は首都故の陥落させる意義の大きさからでもあろう。
 楊玄感は進軍中に多くの人を兵に取り込み、洛陽に到るまでには10数万にまで膨張していた。
その中には山東半島などの没落農民も多く含まれていた。
大業七年(611)、現在の山東省と河南省辺りが水害に遭った。
これにより、人身売買を行う程にまで追い込まれた農民達は止むを得ず楊玄感に従軍したものであろう。

 洛陽には着いたものの、城の守りが堅く、陥落させることが出来なかった。
李密の予言が当たったのであろう。しかも、この間に既に楊玄感の乱を聞いた煬帝は遠征軍を洛陽へと向かわせていた。
このまま留まる訳にいかず、楊玄感は洛陽城の包囲を解き、急遽、李密が言った中策(2)を採用し、長安へと兵を進めた。
長安へ向かう途中に弘農宮という煬帝の避暑地を通過することとなった。
然し、とある老父が楊玄感に、弘農宮には食糧の蓄えが豊富で、宮内は空虚であるのでこれを先ず襲撃することが得策であると進言した。
李密は弘農宮攻撃に反対したが、楊玄感は聞き入れず、弘農宮を攻撃した。
然し、放った火が宮中の中に増して、逆に兵を宮中に入れることが出来なくなった。
そうしている間に先程の鎮圧軍に追いつかれ、抗争、最期は弟の楊積善に命じて自らの命を絶たせた。
その後、楊積善を始めとする反乱に従事した者約10万人のうち、約3万人が処刑され、6千人が流罪とされた。

《5 反乱後の李密》
 李密は敗戦後、逃走を続けたが隋軍の捕まるところとなり、洛陽へ身柄を引き渡されることとなった。
反乱後に処刑された人々のうちの数万人は最後に洛陽近辺に生き埋めにされたが、そのまま事が進めば李密もこのうちの一人になっていたかもしれない。
然し、ここで李密は機転を利かし、遂には隋軍の拘束から逃れることが出来た。
李密達は捕縛された時に多額の金銭を所有しており、これを賄賂に利用し、利密達への拘束が緩和された。
そして、ある夜に隋軍が酩酊している間に逃亡を図り、成功した。
これ程までに無防備な脱走が出来たのは隋軍と李密との間の暗黙の了解があっての上だったのかもしれない。
 その後、数年間、李密は各地を放浪し、当時、東郡(現、河南省)で反乱を起こしていたテキ譲に匿われた。
李密はテキ譲の下で徐々に発言権を強め、同僚達の間でも信頼されていき、617(義寧元年)、興洛倉(現、河南省)という食糧庫を手に入れた時に、魏公という称号を自称した。
然し、利益の不一致(戦利品の分配、反乱軍の運営について等)や、互いの権力争い等の原因からか李密はテキ譲とそれを支持する人物を殺害した。
それが契機となり、次第に勢力に翳りが生じ、煬帝死後後に隋軍を率いた宇文化及達を破ったものの、李密軍も被害が多く、更なる衰退が続いた。
義寧二年(618)、最後は王世充に大敗し、当時、同盟関係にあった李淵に降り、李世民の
計らいによって身柄を安堵された。
然し、実は先程の同盟関係は両者対等な関係の上で成り立ったものではなく、《李密>李淵》という李密優位が前提としたものであった。
もし、両勢力によって中国が平定されたら李密を主として新しい秩序を築くという取り決めまで行われていた。
それを甘受させられた恨みがそうさせたのか、李淵は李密を冷遇した。どのように冷遇したのかは史料に記載されていなかったが、李密は李淵に対して謀反を企てた。
その謀反が周囲に知れ渡り、最期はその地の士卒に殺された。

【第三次遠征と煬帝の最期】

《1 第三次遠征》
 大業十年(614)煬帝は重臣達を呼び寄せ、第三次遠征を行う意思を伝えた。
最早反対しても意味がないことを知っていたのか、家臣の中で異議を唱えるものは誰もいなかった。
 韓国側の史料『三国史記』によると、撃退したとはいえ、数十万規模の攻撃を二度も受けた高句麗は既に弱体化が著しかったらしい。
そのようななかでの第三次遠征を受けた高句麗は次々と拠点を陥落させられた。
遠征軍は平壌にまで迫り、撃退した第一次遠征時と比べても高句麗は風前の灯であった。遂に高句麗は隋に降伏を乞い、臣下の礼をとることを約束する由を煬帝に伝えた。
一方、国内も既に竇建徳や弥勒菩薩信仰者等が蔓延しており、王世充等が主に鎮圧にあたっていた。
隋末は『隋書』食貨志にあるように「天下人十分九為盗賊」と言われる程に反乱が激増していったが、その過程であったであろう当時に遠征など行っている余裕など無かった筈である。
それを理解してなのか、煬帝は直ぐにこの降伏を受け入れ、国内へと引き返していった。
来護児はこの受け入れに反対し、再戦を提案したが、聞き入れられなかった。
 翌年、煬帝は再度隋への入朝を要求したが、高句麗側はこれを拒否した。
遠征時は降伏したが、この後、高句麗は唐が成立するまで中国に朝貢することはなかった。
つまり、実質上、隋は高句麗の帰順に失敗したことになる。遼東城や乙支文徳と同じパターンであるが、隋軍は最後までこの方法にて高句麗に退けられることとなった。
 煬帝は四度目の遠征をも企てたが、国内の分裂を顧みた煬帝は遠征を止まった。
結局、三度にも及ぶ遠征は全て失敗に終わり、自らが招いた失政によって隋は急速な破滅と更なる分裂へと向かっていった。

《2 遠征後の煬帝》
 第一次〜三次遠征の間は特に飢餓が激しかった山東半島辺りで反乱が激増していった。
同時に隋に最も忠実であった突厥の啓民可汗が没し、その後を継いだ始畢可汗が隋に反旗を翻した。
煬帝は啓民死後の後継者問題に干渉して始畢の即位に逆らうように始畢の一族の南面可汗を即位させた。
突厥の内部からの弱体化を謀ったものであろう。然し、その行為に不満を感じた始畢は第三次遠征後の遠征軍を襲い、煬帝を窮地に立たせた。
結局この突厥との戦いは李世民によって難を逃れた。
洛陽にいた煬帝はこれらの敵から逃れる為(煬帝個人の趣味も理由の一つであろうが)に江都(現、揚州)へ実質上の遷都を行ったこの時に煬帝は自分の孫を各拠点へと置いた。長安には楊侑を、洛陽には楊?を、そして煬帝自身の傍には楊 を置いた。
自分、もしくは孫に何かが遭った場合でも分散させておけば被害が最小限に食い留めることが出来ると思って行ったことであろうと宮崎氏は言う。

《3 煬帝の最期》
 江都とは煬帝の即位以前の時に支配を任せられていた土地であり、それ以来、煬帝はこの地を好み、即位後も幾度と行幸していた。
煬帝作とされる「江都宮楽歌」という漢詩が残されているが、この詩により煬帝の江都に対する思い入れの程度が分かる。
その地に移ってからの煬帝は贅沢を尽くし、江都の人間ばかりを贔屓していた。そして、周囲からは華北奪還の意思も感じられなかった。
楊玄感の乱の際にも触れたように、洛陽には隋の家臣達の家族が住んでいた。煬帝が江都へ到ったということは、即ち洛陽を見捨てたということとなる。
第二次遠征以前に煬帝は主に華北出身の志願者から成る驍果衛という禁軍を結成し、江都においても煬帝の警護をさせていたが、彼等の家族もまた主に洛陽に住んでおり、同じような不満を持っていた。
しかも、この頃の華北は李淵の長安制圧や李密の洛陽包囲という状況にあり、この情報は一層彼等の不満に拍車を掛けたであろう。
史料には江都から逃げ出す隋の家臣が続出したとあるが、その中には家族の安否を懸念して逃亡した者も多かったのであろう。
 隋の重臣であった宇文述はこの頃既に死去し、代わりに傍には子の宇文化及と宇文智及等が煬帝に付いていた。彼等は不満に駆られる驍果衛に嘘の情報を流した。
煬帝は今や扱い辛くなった驍果衛を皆毒殺し、替わりに江都の人間を新しい近衛兵にするというものである。
これを聞いた驍果衛は煬帝を拘束し、華北への出兵を迫った。然し、宇文化及は煬帝を許さず、武徳元年(618)、最期は孫の楊 と共に殺害された。
宇文化及の勢力が及ぶ範囲の煬帝の家族は楊浩を残して全て宇文化及の陰謀により殺された。

《4 その後の宇文化及》
 煬帝殺害後、宇文化及は楊浩を皇帝に擁立して、驍果衛を率いて華北へと出兵した。恐らく宇文化及は驍果衛に華北奪還を条件に驍果衛が自分に従事することを約束させたのであろう。
然し、李密との戦いに敗れたことで一気に勢力を失った。
最期の死に様を飾る為か、宇文述は楊浩を毒殺し、自らが皇帝を名乗り、国号を“許”と称した。
そして近隣の反乱軍の竇建徳に滅ぼされ、逆賊の名の下に宇文兄弟は処刑された。

【唐の台頭】

《1 李淵について》 李淵とは北周時代の重臣の子孫であり、隋と突厥との国境付近に封ぜられた李丙(丙の
上に日)の息子である。
父の後を継ぎ、唐国公を踏襲した。後の大唐帝国初代皇帝の高祖とは彼のことである。
 楊玄感の乱勃発時、弘化(現、甘粛省)留守元弘嗣の攻撃を命じられた。
元弘嗣とは楊玄感の親戚であり、乱に乗じて反旗を翻す可能性があったからである。
李淵は元弘嗣を倒し、新たな弘化留守として任命された。因みに留守とは布目潮風氏曰く「留守は非常時の際に一部の地方に限定して帝権を委任される臨時の重職」である。
そしてその後、李淵は後に太原(現、山西省)留守に任命された。
これは地理的に見れば反乱軍鎮圧を期待しての任命なのかもしれない。
こうして、煬帝は後に自国の敵となる李淵の勢力を強め、最後は飼い犬に手を噛まれる形へとなった。
然し、煬帝はこの唐の中国再統一を見ることなく、その命を終えることとなった。

《2 李世民等による李淵の太原起義》
 李淵の次男李世民は側近の裴寂と劉文静と共に幾度も隋への謀反を薦めたが、李淵は聞き入れなかった。
史料を見る限りでは李淵は優柔不断な性格であり、判断力にも欠ける人物に見られる。
実際に今後の李淵も決断力に欠けた行動がしばしば見られるし、中国統一後の玄武門の変(李世民が長男の李建成と四男の李元吉を殺害した事件)も李淵の対応次第では未然に防げたかもしれない。
但し、これは『隋書』を編纂した魏徴が李世民の業績を際立たせる為に粉飾させた結果なのかもしれない。
そうなると煬帝が暴君と呼ばれる所以も李世民の忠臣魏徴による粉飾である可能性がある。
ある時、李淵は近辺の反乱軍の鎮圧の命令を受け、出兵したが、敵軍に敗北した。煬帝はそれを咎め、江都へ出頭するように命じられた。
追い込まれた李淵に李世民等は再び挙兵することを進言した。李淵はそれを受け入れ、遂に兵を隋へと向け始めた。中国ではこれを太原起義と呼ぶ。
 唐は突厥と同盟した後、長安を制圧し、煬帝が残した孫の楊侑(恭帝侑)を次代皇帝に擁立した。
皇帝とは雖も実質は傀儡である。江都にいる煬帝を勝手に太上皇と称し、李淵は王号を用いた。
こうして李淵、李世民親子は着々と隋という後ろ盾を利用して中国に勢力を伸ばしていった。

《3 煬帝の死後と唐の中国統一》
 煬帝の死を聞いた李淵達は恭帝から禅譲の儀式にて天子の位を譲り受けた。
李淵は皇帝に即位し、国号を唐と称した。
これを以って後の世界帝国と呼ばれる程の勢力と文化を築き上げた大唐帝国が成立した。但し、即位し関しては実際のところ楊侑は強制的に皇帝の座から下ろされたのであり、その後、楊侑を始めとする煬帝の子孫は将来の憂いをなくす為に殺された。
中国史には名目上の禅譲によって前王朝の帝位を簒奪し、その後の旧皇族を虐殺するという過去がしばしば見られる。
北周王朝も文帝に皇帝を譲った後は北周の皇族は諸共殺害されたが、隋も北周と同じ憂き目に遭うこととなった。皮肉なことである。 一方、もう一人残された煬帝の孫の楊有(有に人偏)(恭帝有)は煬帝の重臣の一人だっ
た王世充に擁立され、傀儡となっていた。
王世充は煬帝の生前、洛陽に残り、李密と攻防していたが、煬帝の死に乗じて、洛陽にて権力を乱用し、内外の勢力を拡大していき、遂には恭帝を廃し、王世充自身が皇帝を名乗り、国号を“鄭”と称した。
これによって煬帝から続いた隋の勢力は完全に消滅した。因みに教科書等では一般的に隋の滅亡は618年とされているが、これは煬帝の死や、恭
帝侑の禅譲が隋の滅亡と定義されているからである。
また、隋滅亡と唐建国とが同じ年であると何かと都合が良いという便宜上の理由もあるからに違いない。
煬帝没後に三分した勢力(宇文化及と楊浩の隋、王世充と恭帝?の隋、李淵と恭帝侑の隋)
のうち王世充率いる隋は618年にも存在していた。
皇帝の存在は有名無実であったとしてもまだ恭帝?は廃位させられてはいなかった。
ということは恭帝?が廃された619年こそが実質上においても名目上においても隋帝国滅亡の年号と言えるのではないか。
王世充は唐と戦うが、李世民等率いる軍隊に勝つことが出来なかった。
そこで王世充は当時、巨大な勢力をほこっていた竇建徳と手を結び、連合して唐に対抗することにした。
然し、それでも敵わず、鄭、夏(竇建徳の国の国号)連合軍は次々と唐へ降伏していった。そして最後はそして王世充と竇建徳自身も降伏した。
竇建徳は処刑されたが、それに従事した兵は解放された。
王世充は許されるが、既に彼は煬帝の生前から大勢の人々を殺害しており、結局彼に殺された者の息子によって殺害された。
その後、彼等の残党は暫く抵抗を続けたが、それを平定し、唐による中国統一が成された。
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