平成十七年度近現代史部会発表概要

近代史における石鹸−流通過程を中心に−

1.はじめに
2.石鹸とは?
3.石鹸工業研究史
4.石鹸工業通史(明治期〜第二次世界大戦前)
5.1.石鹸の流通過程(国内編)
5.2.石鹸工業にての流通革命
6.石鹸の流通過程(海外編)
7.結論、まとめ

星1.はじめに

今年の近現代史部会は身近な日用品の中で石鹸に着目し、近現代史の中で石鹸をどのような立場に位置づけるかということをテーマにした。もうひとつの課題として日本産石鹸はどのような戦略で他の先進国の外国産石鹸などと対抗することでどのように打ち勝ったのかという事を特に流通過程を中心にして研究を行った。我々が流通過程に注目した理由として日本の石鹸工業を歴史的な視点から概観して見ると明治期の石鹸工業は手工業的なものであったが、昭和期に入り日本は慢性不況と呼ばれるような時代になるのだが軽化学工業への発達を成し遂げたのである。このことの理由として我々は後に5.2で述べることになるが1925年から1930年にかけて、後の世から述べられることであるが石鹸工業の業界では流通革命と呼ばれる流通過程の改革が一番影響しているのではないかと考え、この流通革命を中心にして日本の石鹸工業の発達史を研究してゆくことにした。更にこの視点の中で海外へ輸出する日本産石鹸にはどのような影響を与えたのであろうかということを6で研究した。なお今回の研究の時代として、戦後の石鹸工業は戦後のドサクサに紛れて産業構造が急変したことなどが今回の研究の土台としており、他にも戦後の急激な経済発達で洗濯用の石鹸の需要が洗剤に取って代わったことなどを理由として今回の研究の範囲は昭和の戦前までとしている。

星2.石鹸とは?

石鹸とは狭義には脂肪酸ナトリウム(ソーダ石鹸及び硬石鹸)と脂肪酸カリウム(カリ石鹸及び軟石鹸)の2つである。石鹸には用途によって洗濯石鹸、化粧石鹸、工業用石鹸といった分類であるが本稿では前二者を中心にして扱った。
石鹸の製法としては
1.椰子油、オリーブ油などの天然油脂に水酸化ナトリウム(=苛性ソーダ)または水酸化カリウムを加えて加熱、鹸化させる方法
2.油脂を分解してできた脂肪酸に水酸化ナトリウムまたは水酸化カリウムを加えて中和する方法
の2つがある。1を油脂鹸化法、2を脂肪酸中和法という。このようにして出来た石鹸の生地をリボン状あるいはチップ状にして香料・色素を加えて機械でよく練り押し出して、出てきた石鹸を切断して型打ちしたものを機会練石鹸という。他の方法として石鹸素地を枠の中に流し込んで冷やして固めて切断したものを枠練石鹸と呼ぶ。
石鹸の原料になる油脂は明治から大正の初期までは国内産牛脂は質が悪く、そのものの量も国内産の需要を満たすには足りないのでオーストラリア牛脂に全面的に依存していた。大正に入ると硬化油(註1)工業の発達によって国産の鰯、鰊を使用した魚油の硬化油がコスト安などを理由にして取って代わったが、第二次世界大戦後はアメリカ牛脂、オーストラリア牛脂が主になっている。他にも椰子油なども使用され、標準価格で売られる石鹸の程度を例とすれば牛脂8に対して椰子油2の割合で混ぜていたと花王石鹸五十年史(1940)に記載されている。

(註1)硬化油・・・魚油、大豆油などの液体の油脂に水素を化合して固体にしたもの。牛脂の代用品として石鹸、グリセリン、脂肪酸などの製造に使用される。

星3.石鹸工業研究史

石鹸工業の研究の歴史として概観してゆくと、戦前期、戦後から80年代の末期まで、90年代以降と大体三つに区分されている。まず戦前期から概観してゆくとこの時代は石鹸工業の歴史は石鹸工業の会社自体で編纂された自社史が中心になっていた。石鹸工業を化粧品工業の中の業務の一つとしている会社による自社史発行の創始は昭和2年に第一工業製薬が発行した『沿革史』であった。石鹸工業を本業としている会社による自社史として講座派の歴史学者、経済学者によって昭和15年に『花王石鹸五十年史』が発行された。この史料を良く見てゆくと外国の石鹸工業を説明するところなどにもマルクス主義的な説明が成されている所などからもマルクス主義的な影響があることは否定出来ないがそのことを除けば石鹸工業を概観してゆく上で根本的な歴史書である。このことが戦後の石鹸工業研究史に戦後大いに影響を与え、マルクス主義的な解釈による研究が明治初期の士族授産の面から見た石鹸工業について研究が行われた。80年代末までの石鹸工業のスポットの当てられ方は産業構造を歴史的な立場から見ていかなる立場に置かれているのかということからであったが90年代以降から現在にいたるまで石鹸工業史の見方は細分化し、流通過程の研究が主な課題となっている。

星4.石鹸工業通史(明治期〜第二次世界大戦前)

我々は明治から第二次世界大戦前までの日本における石鹸工業を歴史的な視点で見つめてゆくと明治初期の家内工業としての石鹸工業から昭和期の軽化学工業として一応の発達を遂げることになった石鹸工業まで五段階の発達段階を遂げたと推測した。五段階の第一段階として明治6年に行われた秩禄処分で困窮することになった士族が石鹸工業に参入したのが始まりであり、これと同時期に京浜地方で石鹸の自家生産が始まった。この時期の石鹸工業はまだ江戸末期の蘭医学的とも言えるような石鹸工業の域を出るような物ではなく手工業的なものであり「士族の商法」的な性格の強いことは否定することができないのであった。これを我々は「明治期士族授産時代」と位置づけた。第二段階として第一段階の時代には石鹸を使用する対象は上流階級がほとんどであった。しかしこの時代には駄石鹸と呼ばれる1打(ダース)10銭以下(士族授産時代の石鹸は1打1円が標準)の質の悪い安価な石鹸が市場に流通し流行した。このことによって蘭医学的であった士族授産時代の石鹸工業は競争力を失い市場から退場してゆき、石鹸工業は商業的な面が強くなる傾向が次第に見られるようになる。一般的にこの時代を代表する駄石鹸は海外市場、従来の石鹸を使用していた上流階級の市場からの観点からすると石鹸の品質の低下によって日本産石鹸は敬遠されることになることになることから否定的な面で見られる傾向が強いのであるが我々はこの駄石鹸が登場したことによって従来、ごくわずかな階層しか石鹸というものが認知されてはいなかったが石鹸が全国的に知名度と流通網を広げたことと中産階級以下にも石鹸の普及に貢献したということを鑑みなければならないことを考慮すべきであり付記しておくこととする。また駄石鹸の登場とはこの安価な石鹸に対抗するための品質の高い石鹸を作り出すことになり明治20年長瀬商店(花王の前身)により今までの石鹸は顔も洗うこともできなかったがこれからは安心して顔を洗うことができる石鹸ができ、花王石鹸が販売された。この時代を我々は「粗製濫造時代」と位置づけた。第三段階としては第一次世界大戦前後に石鹸工業において新技術が登場したことである。前出した硬化油である。日本の硬化油工業としては明治43年にイギリスのリバー・ブラザーズ社(現在のユニリーバ社)が日本での現地法人として中国方面に石鹸を輸出するために尼崎に工場を設立した。これが日本における硬化油工業の始まりであり、日本在地の資本として硬化油工業設立は大正3年の横浜魚油が創始であった。硬化油工業は第一次世界大戦によりヨーロッパの固形油脂が不足したことによって輸出が急増し、国内でもオーストラリア産の牛脂の禁輸が影響して石鹸に普段使用していた牛脂の代用品として注目され需要が急増した。この時代を我々は新技術の開発ということに注目し「硬化油開発」の時代とした。第四段階として第一次世界大戦後から大正末期までの時代が該当し、この時代は前段階に新技術として開発された硬化油の需要が急落し新たな改革が石鹸工業にとって必要となる石鹸工業にとって厳寒期であった。この理由として硬化油工業自体には大正8年に旭電化が他にも元鈴木商店傘下のスタンダート油脂などが次々と参入した。第二に第一次世界大戦が終息したことによって欧州の油脂製造能力が回復したために需要が低下したこと、第三にオーストラリア産牛脂の輸入が再開され大正9年には日本のグリセリン製造工業を援助するために無関税とされたことである。これら外需と強力なライバルの復活という理由以外にも戦後恐慌によって国内需要が低迷したことで硬化油が過剰生産になり業者間の競争が発生し硬化油の価格が下落していった(註1)。この価格下落の問題を受けて硬化油業者は対抗策としてライバルの力を割くために牛脂再課税運動を行った(註2)。他にも硬化油工業の業者が自前で石鹸を生産する会社も現れだし大正11年に旭電化とミヨシ油脂が参入したことが代表的な例である。この時代を我々は硬化油の実用化、価格下落という現象から「試練の時代」とした。最終段階は硬化油の価格下落の対策として第四段階には登場しなかった昭和初期の硬化油カルテルの結成が契機であると我々は考えた。この硬化油カルテルの動きは大正15年に販売代理店間の競争に十分な成果は挙げることが困難であったのだが価格競争による共倒れを防止するために国内の二大製造業者の合同油脂と旭電化による価格協定を創始とし、このことを受け同年に関東市場での販売窓口を一本化するために「東京硬化脂販売」が設立された。この後カルテル機関は段々と強まってゆき昭和3年油脂工業系統の会社による日本硬化油協同組合が結成され、昭和6年に大正15年の価格協定の2社に加え7社による日本硬化油同業会が結成され同時期に重要産業統制法が施行されたことによって強力なカルテル機関へと発展したのであった。この当時は(註1)のような状況下にあったので石鹸製造業者のうち初めは中小の洗濯石鹸業者が打撃を受けた。しかし昭和7年には満州事変後の対外事情の悪化に伴って牛脂への高関税が実施され(註3)、このことを受けて昭和9年からは花王、ライオンなどの一部の大企業の石鹸製造業者が硬化油の自給が行われることで石鹸製造企業と硬化油製造業者の対立が深刻化したが、翌年には硬化油同業会に石鹸製造業者側が加入するという妥協策により解決したのであった。このような策の取れない中小石鹸製造業者の生き残り策として代表的な例として中小石鹸製造業者が大企業から硬化油の供給を受けるという策が行われ、中小石鹸業者6社がライオンから硬化油の供給を受ける七星会という組織が結成されるなどした。このように硬化油業者対石鹸製造業者という構造からこの時代は硬化油を製造できる大企業と硬化油の割り当てを受けることのできる中小業者、原料を自活できない石鹸製造業者の対立へと構造が変質した時代であった。この構造が戦前まで続いていった。この時代を我々は「硬化油カルテルの時代」として戦前の石鹸工業の歴史的構造の頂点とした。では我々の調べた流通過程とはこの石鹸工業通史からすると具体的にどの時代に該当し影響を与えたのであろうか?我々は石鹸工業の家内工業から軽化学工業の発達という考えの中で経営史方面から扱われる5で述べられる流通革命とは第四段階から最終段階へいたるためのさまざまな改革のなかで最も重要なことだとし最終段階への発達を証明する重要な証拠であると我々は位置づけた。次の章で流通革命以前の流通過程の説明を含めその詳細を述べてゆくこととする。

(註1)大正9年・・・牛脂1キロ587円、硬化油1キロ550円
■■■大正14年・・・硬化油1キロ212円
ちなみに当時は硬化油は品質が劣悪であったため石鹸には安物の洗濯石鹸を除いてほとんど使用されなかった。
(註2)大正15年に再課税が決定し60キロ1円20銭になる。
(註3)昭和7年牛脂60キロ1円62銭になり、昭和11年には6月25日から12月13日にかけてオーストラリア産牛脂に限定し2円43銭の関税が付加された。

星5.1.石鹸の流通過程(国内編)

もともと石鹸は輸入物の石鹸が小間物として販売されていたために独立的な地位が与えられるような商品ではなかった。花王の前身である長瀬商会を例としても元々は横浜の輸入品を扱った小間物店であったように日本での石鹸の販売は雑貨屋や小間物屋が扱ったことを創始としていた。明治20年に発売された花王石鹸もこの小間物店代に作り上げた流通網を活用したものであった。この販売方法は花王石鹸五十年史によると「宿(やど)セリ」と呼ばれこの方法は石鹸製造側が地方に出張した際には店主及び社員がまず取引をする店舗に挨拶に行き、その後購入側店舗が石鹸製造側の宿泊している宿に商談にやってきて商品を売買するといった方法であり長瀬商店の本舗がある東京での取引の場合には東京市内の場合には直接納入の例もあり、地方問屋には逆にこちらが問屋の宿泊している宿に出向いて売買を行うというやり方である。この取引法は当時としては一般的な取引法とされている。同じく並行して大規模取引先の地方問屋とは代理店契約を結ぶことで取引をしている。当時の長瀬商店の戦略としては市場の拡大のために新聞広告を重視したことである。大正、昭和までは売薬、本、化粧品が新聞広告において三大スポンサーであり長瀬商店も明治20年には純利益の71パーセントを広告費につぎ込み全売り上げからしても10パーセント前後を投資し続けたのである。この時代取られた宿セリ及び地方代理店、販路を拡大するために使用する多額の広告費という政策は花王にも数々の利点を生み出した。当時横浜及び東京程度にしか流通網を持ち合わせてはいない小規模な小間物店に過ぎない花王がこれらの流通網を利用することで全国進出を果たすことを可能にしたのである。それに加え既存の流通網を利用したため本来自分で流通網を作らなければなれないというリスクを軽減しまた低コストで全国への流通網が維持できるのである。しかしそんなに都合のよいことばかりではなく当然欠点も存在する。欠点として商品の流通及び販売が全て問屋側に握られてしまうため経営での利益は問屋次第という問屋に依存した体制にならざるを得ないことでありこのことがその後の乱売そして大正末期の流通革新へと結びつく起因にもなるのである。大正期以降には他の化粧品業界や油脂業界が石鹸市場に参戦し、今まで代理店に任せていた地方へと石鹸業者本体が進出するようになる。この大正期の石鹸業界の重要な問題は「乱売」であった。乱売の対象になったのは主に化粧石鹸であり、乱売の原因としては卸売業界と小売業の構造の問題であった。卸売業の立場では花王などの有名企業の石鹸を安価で卸売することによって小売業への流通網を拡大することを目的としていたことと製造業者との関係で当時石鹸製造業者は問屋を通さなければ製品を販売することができなかったために石鹸製造業者は問屋に生殺与奪の権を握られていたともいえる状態にあったのである。小売店側からすると有名企業の石鹸を安価で販売することで客寄せに使用されたこと、石鹸の利益は小売店に同じく販売されていた安価な無名石鹸を販売することで補われていた。以上どちら側にもこの構造を維持するための利益があり石鹸製造業者からすればどちら側にも徹底的に利用されたのであった。この「乱売」構造への石鹸製造業者側の対応策として登場したのが流通革命であった。

星5.2.石鹸工業にての流通革命

この流通革命は佐々木聡氏の論文「花王にみる戦前日本の流通革新」(1994)以降に進められた研究に多くの内容を得ており、氏はこの分野において泰斗である。まず、流通革命とは大正末期から昭和初期にかけて化粧石鹸業者が相次いで実施した石鹸業者の自社製品の問屋囲い込みと定価維持政策という当時の乱売運動への対抗策のことを言い、経営史方面の学者からはダイエーなどの小売業者の改革が行われた戦後の第二次流通革命と対応して、この流通革命は第一次流通革新のモデルケースとして注目されている。石鹸工業は日本産業全体からするとこの革命が行われた時期としてはやや後発の時期になっている。
この問屋の整理策を中心にした流通革命を行った会社として石鹸工業業者を比較する上で規準になる花王と流通革命の最先鋒に立った資生堂を例として詳細を述べてゆくこととする。花王が行った具体的な策として当時長瀬商店と問屋との取引には直接取引の有る問屋(A級代理店)と直接取引の無かった問屋(B級代理店)が存在した。この問屋流通網の問題として帳簿上の取引にて扱われる帳合品取引に問題が存在した。花王はある県にあるA級代理店が他の県に存在するB級代理店への取引を禁止し、従来直接取引することのできなかったB級代理店を直接取引のできるA級代理店へと格上げする措置が取られ、各府県の下に直接取引店を置いてその傘下に中小卸売店を束ねる花王会を結成した。花王側の利点として従来握ることのできなかった地方の卸売店と直接取引ができるメリットが生じたのである。しかし花王の流通改革は小売店側まで流通網の整理にいたることが無く川上の流通網の整理策までしかできなかったことを注記しておきたい。花王は他にもボリューム・ディスカウント政策を実施し、具体的な割引価格として50打取引につきA級は2円、帳合は1円とされた。さらに一年間に1000打取引するごとに50打直入1円50銭、帳合品50銭となっている。次に資生堂は3つの改革が行われた。1つ目の改革として小売店の改革として小売店のボランタリー・チェーン(註1)化が行われていた。この方法は従来石鹸の利益率は16パーセントであったが20パーセントの利益率を販売店側に確約することによって資生堂製品を専門に扱う連鎖店(チェーン店)化する方法である。問屋側の取次店は5パーセントの利益を確約することで資生堂製品を扱ってもらうことで一定の保証金と資生堂製品を連鎖店以外に売らせないという方策を行った。第二に問屋側の改革として資生堂専門卸売業者として昭和2年に資生堂製品販売会社を設立した。1つめの小売網の改革と相まって資生堂は自社独自の流通網としての流通チャネル体制の確立、再編成を行った。第三の改革として資生堂はチェーン店への顧客登録、年間予定額の設定、記念品贈呈という消費者の組織化を目的とした花椿会を組織した。以上3つの改革を1930年代までには成し遂げた資生堂は戦後数十年続くことになる流通チャネル体制を確立させることになるのである。

(註1)通常のチェーンストアストア制度とは固有の会社の製品は扱うことは一緒だが、固有の会社の屋号を名乗らなくていいということで異なる。

星6.石鹸の流通過程(海外編)

この項は「日本産石鹸が海外市場ではいかにして海外産及び在地産石鹸からシェアを獲得することができたのか?」ということを中心の論題とし1990年代前期以降活発に研究されることになった日本の対植民地経済への投資政策の面からの視点も絡めて研究、分析を行った。家内工業から軽化学工業の発達からすると石鹸市場発達の一例としてみてゆくことができる。ちなみに日本産石鹸が海外に進出する上で日本の流通革命のように問屋整理や小売店を傘下に置くようなことをした実績は見られない。取引経路として輸出向け石鹸の代表的産地である大阪を例にすると市内の問屋、海外の輸入商、輸出商の3ルートがある。まず問屋は内地での取引を兼業して行っているものがほとんどであり、大阪在留の中国商人に売り込みかつ直接輸出もしていた。輸出商ルートは8割を占め神戸の日本商人や中国商人、外国商館などが輸出商として扱っていた。このことから海外への石鹸販売の発展は企業努力云々よりも国策による影響のほうが大きかったのである。具体的にどのような策が行われたかということで関税政策と品物の輸送運賃優遇政策である。当時の日本産のシェアの例として当時日本領だった台湾を例とすると大正13年当時では日本産石鹸が市場シェアの70パーセントから80パーセントを占めている。もう一つの例として哈爾濱市場を見てみると第一次世界大戦前はロシア産がほぼ独占していた。戦後は日本産とフランス産の競合となり、満州事変後は日本産石鹸が市場を独占するのであった。では上の市場の日本産シェアの変化に関税政策と品物の輸送運賃優遇政策はどのような影響を与えたのであろうか?関税政策の例として対日本植民地市場への原材料輸入の高関税政策、完成品輸入の低関税政策であった。輸送運賃優遇政策としては現地産製品との生産・輸送コストと比較して日本産とはほぼ同一になり、逆転する事例があり、台湾を例とすると台湾現地産石鹸の経費が1トン31円、日本産石鹸は1トン22円という例がある。これら二点の方法により在地産業を駆逐し、日本産石鹸の乗っ取りが達成されたのである。結論としては日本産石鹸の市場の広がりとは国力によるものであったというのは最終的に述べられる結論である。

星7.結論、まとめ

我々は近代史の中で石鹸の立場というものを位置づけるか?そのために全体を通して石鹸工業の軽化学工業への発達の過程を振り返ってもらうために石鹸工業の歴史を扱った。その中でも産業構造の変化がもたらした流通革命について扱い、さらに日本石鹸工業が海外ではどのように海外石鹸工業に対抗したかを触れた。結論として石鹸工業は石鹸の創始期には秩禄処分後職にあぶれてしまった士族によって行われた名古屋での石鹸工業のような例のように多くても従業員は10人程度という家内工業の域をでることの無かったものから石鹸製造企業による自社独自で原材料である硬化油の生産から自分の工場での加工、生産、加えて、産業構造の変化によって流通体系まで前時代的な問屋任せの流通網から石鹸製造企業がある程度流通網を自社ルートのチャネル体制を確立しようし石鹸工業は化学工業を名乗ることのできるような産業へと発達したのである。だが日本での流通構造の変化は海外での取引までに影響することは残念ながら無かった。では何故石鹸工業が海外で対抗できたのかを見ると関税政策、輸送運賃の政策など日本の国策に近い面を石鹸工業がうまく利用したのが原因であると導き出した。このことについて鑑みてゆくと日本が戦前一貫して述べていた近代化、工業化という国策に対して石鹸工業は産業形態として家内工業から軽化学工業への発達と日本が戦前辿った軽工業から重化学工業へという産業構造の変化とずばり一致することになるという結論が導き出されるということにいたったのである。以上をもって「近代に於ける石鹸−流通過程を中心に−」を終わりとすることにする。

もし皆さんの中で石鹸工業の歴史に興味が有り自分で調べてみたいというかたには服部之総・小林良正『花王石鹸五十年史』花王石鹸株式会社 1940が旧書体を読めれば一番参考になる。
新書体が良いという方には花王石鹸社史編纂室編『花王百年史』花王株式会社 1993が参考になる。

流通革命について知りたい方は佐々木聡「化粧品・石鹸業界にみる流通革新―資生堂と花王の事例を中心に」『革新の経営史』1995が著書としては参考になり、佐々木氏の論文も参考になる。
海外の石鹸工業に知りたい方は大阪市産業部『大阪の石鹸工業』「大阪市産業叢書」第10巻1932などが参考になる。皆さんの助けになれば幸いです。

これはHP用に大部分を特に海外市場編を多めに要約しました。しかし実際の研究はこれよりはるかに詳細なものとなっておりますので、若木祭にて実際に研究成果を見て頂ければ幸いと思います。

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