平成十七年度中世史部会発表概要

豊臣家臣団の構造と成

はじめに
豊臣家臣団概説
1.豊臣家臣団の概要
2.政権の動向と家臣団の変遷
3.関白任官と武家官位制
家臣団の職掌とその変遷
1.豊臣家奉行人の職掌
2.五大老と五奉行
「取次」の役割と家臣団
関白豊臣秀次
まとめ

星はじめに

数ある武家政権の中で、豊臣政権は非常に際立った存在である。それは、豊臣秀吉という特異な人物が政権をとったという点が大きい。譜代家臣を持たず、何の基盤も地位もなかった豊臣氏が、どう政権を確立させ、さらにその政権を維持する意思があったのだろうか。今回はそのような疑問に対し、豊臣氏を支えた家臣団の視点から見ていきたいと思う。

星豊臣家臣団の概要


丸1.豊臣家臣団の概要
豊臣家臣団の分類として譜代衆(厳密にいえば譜代衆は存在しないが、便宜上、譜代衆とした)、直参衆、親族衆、新参衆、御伽衆にわけた。

丸2.政権の動向と家臣団の変遷
政権の動向と家臣団の変遷について、第1期〜第3期にわけてみた。第1期は秀吉の関白就任まで、関白任官から秀次失脚が第2期、そして秀次失脚からが第3期である。

丸3.関白任官と武家官位制
武家官位制とは、秀吉が武家社会を統合すべく創出した官位制による身分秩序である。これは秀吉の関白任官と密接な関係を持つものである。ここでは秀吉の聚楽第行幸等の史料から、武家官位制について考えた。結論としては、秀吉はこの官位制を利用して、武家の新しい身分秩序の創出を狙いそれは、秀吉の聚楽第行幸時に一つの完成をみた。そして、家臣団もまた、その武家官位制に組み込まれていった。しかし、家康ら大大名には手を出すことはできず、外様大名の完全な家臣化を達成するには、至らなかった。
豊臣家は新興の武家であり、その家臣団はわずか二十数年間で寄せ集まった集団であった。このような家臣団が全国規模で政権運営をするために性急かつ、強固な結束と地位の向上が求められ、それが、武家官位制、五大老・五奉行制であった。しかしながらその動きは結実せず、家臣団の分裂と政権の崩壊という形で幕を閉じた。

星家臣団の職掌とその変遷

丸1.豊臣家奉行人の職掌
豊臣政権は全国各地で政策を展開、その奉行人は家臣団から、検地などの役目が必要となるたびに奉行人を任命し、その土地へと派遣していた。天正十年(1582)、秀吉は明智光秀を破ると、山城国で検地を行った。その後、豊臣政権は慶長三年(1598)まで全国規模で検地を実施した。所謂太閤検地である。この検地を奉行したのが、豊臣家家臣団である。しかし、前田利家や徳川家康など大大名などは、太閤検地ではなく、独自の検地を実施、豊臣政権はこれを黙認せざるを得なかった。
寺社や朝廷は京都所司代が管理しており、豊臣期は前田玄以がその任にあった。
豊臣家は全国に蔵入地と呼ばれる直轄地を設けた。この蔵入地は機能も形態も様々であり、それらを1子飼武将、2直属吏僚、3在地領主、4服属大名にわけ、さらに、T軍政型、U番城城廻型、V外様大名領内設置型、W大名領地型、X吏僚代官型にわける。また豊臣政権は南蛮貿易にいち早く目をつけており、貿易船への交渉や買占めなどを行った。これは主に九州に配置された家臣団によって管理された。

丸2.五大老と五奉行
ここでは、「五大老」と「五奉行」の呼称をめぐる問題から、政権後期の動向をみていく。所謂五大老を「奉行」、五奉行を「年寄」と呼称する文書が見受けられることから、豊臣政権後期には、五奉行、特に石田三成を主とする一派は五大老を豊臣政権に取り込む事により、豊臣家への集権を意図していた。また、畿内近国を秀吉の信頼の篤い大名を置くことで豊臣家にとっての最重要地域の安定を図った。
豊臣政権の政策は全国規模で展開し、家臣団は奉行人として派遣された。その中でも、後に五奉行となる奉行人の成果は政権に多大な貢献をもたらし、彼らは必然的に政権の中枢への影響力を強めていった。またその過程で家臣団内に対立が発生し、後の派閥形成を生じていくことになる。

星「取次」の役割と家臣団

豊臣政権を特殊づける要素は多くあるが、その中でも「取次」・「指南」と呼ばれる役割・機能には、特徴的なものがある。武家政権の中でも異彩を放つ豊臣政権の特殊性を研究するにあたって、この職掌を研究することは必須と言える。
「取次」とは、豊臣政権において秀吉の意思を下達する際、その命令の便宜をはかり地方の大名に取り次ぐものとされている。また、「指南」とは、政権の意を受け、諸大名へ検地など領国経営から儀礼に至るまで様々な指南を行うことで、主に取次役が兼任した。「指南」は、諸大名への介入政策の一環で、非常に重要な意味を持っている。「取次」は豊臣政権の権力基盤が脆弱なため、取次役個人の力量に拠るところが大きかった。そのため、本来は豊臣家一大名の?がりを強くするための「取次」がいつしか一大名の?がりの方に比例が大きくなってしまった。それが逆に分権を推進してしまう結果になってしまったのではないだろうか。さらに、石田三成ら新興の家臣の台頭を促していったのも、この「取次」という機能が政権の中枢と密接に関わってきたからと言えるだろう。

星関白豊臣秀次

豊臣秀次は関白職を譲られ秀吉の後継者として位置に就いたがそれは形式だけのものであった。秀次は堂上社会とのつなぎの役割であり、秀吉が秀次に求めたものはまさしくそれであった。文禄二年(1593)八月秀頼の誕生により秀次の政権での位置が危ういものになったのであろう。秀次が出した文書がこの年を境に激減している。それは秀次の政権での位置が危うくなったことを否応なしに示している。秀次は政権側の都合により、朝鮮出兵の兵力として秀次の知らないところで考えられていた。また、秀吉の隠居所の桜木調達のために借り出されもした。このことから秀次は「利用」されたと言うのが正しいことのように思われる。さらに奉行衆は、秀次領内にも介入を進めていく。その結果、諸大名の反感を買い、奉行衆との対立を生んだ。

星まとめ

豊臣家家臣団は豊臣秀吉という後ろ盾のもとで武家官位制や各地での検地、取次ぎなどの職務を果たすことによりその地位を急速に向上させ、政権の中枢を維持していった。そして戦国期における領国政策の流れを引き継ぎ、検地の徹底、大名への介入、寺社・朝廷への統制をはじめその職掌は継続・発展を遂げ、最終的には「五奉行」による統一国家へと大成する寸前まで到達していた。後継政権に関しては、秀頼を中心とした「奉行・年寄」という呼称に政権存続の意思と、その将来を見ることができた。これは家康以外の大老を取り込み、家康を孤立させる事を狙ってのことであろうか、だとしても見通しは甘いといわざるを得ない。政権崩壊の一因であった家臣団内の対立においても、武断派。文治派の対立という見方が多いが、これは朝鮮出兵の後に噴出した対立問題の一つであり、家臣団の分裂は早期からその火種をくすぶらせていた。また五奉行以外の子飼い大名を政権中枢に取り込むことができたという可能性に関しては、秀吉の意図を見抜かねばならない。秀吉は武断派と呼ばれる諸大名を朝鮮出兵の先陣とすべく配置し、内政と外征の分担を図っていた。さらに、文治派による五大老・五奉行制の確立は彼らの政権参画の機会を奪ってしまった。
このように、豊臣家臣団はその職掌の変遷を以って近世への橋渡しを果たした。これら家臣団の残した遺産は、徳川政権へ全て引き継がれ、三百年の泰平を生む統一国家の完成を見るのであった。
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