平成十七年度古代史部会発表概要

古代陰陽寮の機能

はじめに
第一章飛鳥・奈良期の陰陽寮
1.陰陽寮の成立
2.律令制下の陰陽寮
3.陰陽寮の掌握
小結
第二章水落遺跡
総括

星はじめに

継体天皇七年(513)の五経博士の来日を初めとして本朝にもたらされた陰陽、天文、暦等の陰陽技術を基にして、天武朝において陰陽寮と呼ばれる役所は成立した。その陰陽寮に所属する漏刻博士は漏刻台という古代の水時計を管理することが主な職掌である。2005年度の古代史部会は、文献史学の面から飛鳥・奈良時代の陰陽寮の変遷とその特色を主に災異面から、考古学から水落遺跡に設置されたとする漏刻台を明らかにすることを試みた。

星第一章飛鳥・奈良期の陰陽寮

丸1.陰陽寮の成立
陰陽、天文、暦といった後の陰陽寮の構成要素となった、諸々の技術・知識は『日本書紀』継体天皇七年(513)六月条、欽明天皇十五年(554)二月条からも明らかなように、主に大陸からの渡来人によってもたらされた。

それら大陸からの技術・知識を基にした役所である陰陽寮はいつ頃成立したのだろうか。それは、おおよそ天武朝においてのことと考えられる。『日本書紀』斉明天皇十年(660)五月是月条に、中大兄皇子つまり後の天智天皇が漏刻を造ったことが記録されている(漏刻については第二章参照)。この時点で漏刻が設置されたということは、その管理を行う漏刻博士や守辰丁といった役職の前身となるものが既に存在していたのではないかと思われる。天智天皇の治世下に入ると、角福牟が陰陽に通じていたという理由で小山上という位を授けられた(『日本書紀』天智天皇十年(671)正月是月条)。しかしここでは、後の陰陽寮の役職が登場しない点でこの時点では、まだ寮として成立していなかったと思われる。天武朝ではどうかと言うと、天武天皇が天文・遁甲に通じていたと伝えられていることに加え、『日本書紀』天武天皇四年(675)正月丙午条に史料初めて陰陽寮が登場する。さらに、『日本書紀』の同年同月庚戌条をみると占星台と呼ばれる天文台が設置されたことが記録されている。これ以後、天文関係の記事が増加することからこの記事の内容は事実と認められる。成立年を正確に特定することは出来ないが、天武天皇元年から初見記事の天武天皇四年の間に陰陽寮は成立したのであろう。以上見てきたように斉明、天智、天武の流れの中で陰陽寮が形成される素地が養われ、それが天武朝に至り陰陽寮の成立という形になったのではないかと思われる。

古代において、天文異変・災異の出現は統治者の不徳・失策を表すものと考えられていた。これも大陸から伝わってきた思想であることは言うまでもない。そして、災異の出現は政治批判として利用されうるものであった。それ故に天武天皇は陰陽寮を作ることにより、そのような技術を独占しようとしたのではないかと考えうる。持統天皇のもとにおいて施行された浄御原令では陰陽寮は天皇直属の機関であったと考えられている。これは天皇が陰陽寮に関する技術を独占しようとしたためであろう。

丸2.律令制下の陰陽寮
大宝元年に大宝令が制定されたことにより、陰陽寮も律令制下の一つの役所として確立したといえる。

その役割、性格がどのようなものであったか、『養老令』から伺ってみる。陰陽寮は、中務省という天皇の身のまわりの事務を行う役所の下に設置された。次にその役割についてであるが、その一端は職員令陰陽寮条から伺える。陰陽寮は天文・暦・時刻の観察や管理が主な業務であった。基本的な官制は頭・助・允・属の四等官制の他に陰陽・天文・暦・漏刻にそれぞれ博士がおかれた(詳細略)。これら博士はそれぞれの専門分野についての技術職的な性格であったと考えられる。陰陽寮の性格が如実に現れている例として、天皇に対する奏聞の形態が挙げられる。天文博士の仕事の中に、天文異変があった際に観察し、その意味を占うというものがある。そして、それを他人に見られないよう密封し天皇に対して奏聞するのである。奏聞のルートは天文博士から陰陽頭を通じて、中務省を経由せずに天皇の元に届くという順である。通常の奏聞は中務省経由で天皇に届くのが原則であったのに対し、天文異変に関する奏聞は天皇直通であった。これは前述した通り、天文異変が政治批判に転用される恐れのあるものであったため、極力その内容が漏れないようにするためであった。また、天文や方術関係の書物、器具の流出あるいは博士以外がそれらを読むことが禁じられていた。このように陰陽寮は非常に秘密主義的な性格を有していたのである。

以上、述べてきた通り大宝令施行下の陰陽寮は秘密主義的な性格を持っていた。そのため、『続日本紀』天平二年(730)三月辛亥条からも明らかなように後継者がなかなか育たないという問題を抱えていた。

丸3.陰陽寮の掌握

天文異変、災異が政治批判に利用される可能性のあるものであったこと、それを扱う陰陽寮が秘密主義的な性格であったことは先述した通りである。その陰陽寮を管理・掌握することは、政権担当者にとって、政治批判の予防が可能となるというメリットがあった。実際例として、橘諸兄、藤原仲麻呂という二人の人物が挙げられる。

まず橘諸兄についてだが、陰陽寮の長官である陰陽頭に自派の人物である高麦太を置くことにより、自分にとって都合の悪い災異の記録をコントロールした。橘諸兄政権下の天平十年(738)から十三年(741)にかけての災異記事が非常に少ないのは、そのためと思われる。藤原仲麻呂は陰陽寮の経済基盤を支援し、寮の学生の教科書を制定するなど非常に陰陽寮を重視する政策を行っている。また、陰陽寮の官号を大史局という唐風の官号に改めたのも寮の機能である、災異の観察と記録あるいは密封奏聞などが念頭に置かれたものであると考えられる。

このように、陰陽寮は政治批判に繋がる天文異変や災異を取り扱う役所であったため、政権担当者から重要視され管理・掌握が目指された。

丸小結
陰陽関係の知識・技術は渡来人らによって伝わった。それらを基にして天武朝において陰陽寮は成立したが、寮設立の意義はこのような災異を根拠とする政治批判の予防することにあったと考えられ、大宝令による規定の意義も同様であったと思われる。

星第二章水落遺跡

水落遺跡は奈良県明日香村に位置し、『日本書紀』斉明六年五月条にある中大兄皇子が作った漏刻が置かれていた場所と推定される遺跡であり、漏刻(ろうこく)があったとさ れる建物跡と、その南北の掘立柱建物・塀跡からなる遺跡である。

漏刻建物が設置されていた部分は、一辺10.95メートルの正方形であり、溝は幅1.8メートルで花崗岩自然石に被われていて、南北に正確に合わせて建てられている。礎石には柱を固定するための穴があけられており、さらに礎石と礎石の間に石を3〜4個連結させることによって礎石を張り合わせ、さらに周囲にも同様に石を並べ、その上で土を盛り固定していた。以上のように漏刻建物は、特殊な工法により少しの振動をも防ぐような頑丈なつくりになっている。これは、時刻を知らせるための巨大な鐘が建物の上部に吊り下げられていたためと考えられている。礎石のない中央部分には台石と大小2つの漆塗木箱とが見つかっている。これが、当時おかれていたと思われる漏刻を示すものであろう。また、その台石をとりまくように壇の地下には複数の水路がめぐらされている。その水路には、漏刻用の水の給水及び排水をするための水路や、すぐ北にある石神遺跡に水を送るための水路などがある。

遺跡に置かれていた漏刻本体の構造については、建物の地上部分が完全になくなってしまっているために不明な部分が多いが、陰陽思想と同様に漏刻も中国からわたってきたものと考えられる。日本に伝わった漏刻としては、中大兄皇子が漏刻を作ったとされる660年の十数年ほど前まで唐で活躍していた呂才(ろさい)が発明した四段式水時計。あるいは、360年ごろに晋の孫綽(そんしゃく)が発明した三段式水時計が考えられる。いずれの漏刻も水槽に流れた水の量を測ることで時刻を測るものであるが、幾つもの段が設けられているが、その理由は一つ上の水槽の水位が変われば水圧も変わって滴る水の量も一定ではなくなってしまい、これを防ぐためにさらに上に水槽をおいて滴った分の水を補充するようにするためのものであり、サイフォン式に通水する仕組みになっている。さらに、呂才の時代には受水槽が水でいっぱいになると即座に排水されるという改良も加えられていった。また、遺跡の建物跡の中央にある漆塗木箱のうち、内側の木箱が紫禁城交泰殿にある水時計の受水槽とほぼ同じ大きさであることと関連づけると、受水槽である小型の木箱にたまった水を大型の木箱に流しそこから伸びる水路を通って排水する構造になっていたものとも考えられる。

遺跡には他にも、狂いが生じることが必至な漏刻を調整するために、太陽の影の長さや方向から時刻や方角を知る表と呼ばれる計器があったとする説がある。中国の占星台には、 漏刻と先ほどあげた表、それと天文を観測する渾天儀(こんてんぎ)と呼ばれる機器が設置されていて、水落遺跡にも渾天儀が設置されていた可能性もあるが、渾天儀自体の構造が複雑で製作に高度な技術が必要であったことから、中国では製作の際にはその記録が取 られていたのだが、日本には記録が残されていないためその可能性は低いと見られている。

遺跡の造営年代は、壇の建築に使われた土の中から出土した土器の測定の結果、最も新しいものは、斉明天皇の在位時期にほぼ当たる西暦650〜660年代のものであると判明し、遺跡はこの土器の年代以降の時期に建てられたものであることがわかった。遺跡の使用時期の年代は建物部分から溝に流入したと見られる土器が出土しており、この時期もまた同様に西暦650年代から660年代の間のものも含まれている。この時期は先にも述べた、中大兄皇子が水時計を作ったとされる時期と重なるのである。また、当時の政治の中心は飛鳥であったため場所も一致する。

遺跡の廃絶については北にある石神遺跡で起きた火災が水落遺跡にまで広がり、それが原因で廃絶したものと見られており、その時期は木箱や柱の抜き取り穴、溝の炭化物・焼土を含む土から出土した土器から、造営および使用された時期と同じ時期であるとわかった。つまり、出土土器が示すように遺跡の施設は造営後、短期間使われただけで取り壊され、柱の抜き取り跡はそのときできたものと見られるのである。このように水落遺跡はいったん廃絶するが、その後建物があった場所は埋め戻され、大造営が行われる。そのことは、二つの時期の異なる遺構が重なるように存在し、建物の配置や規模にかなりの変更が加えられていることから伺えるものである。

この遺跡を漏刻の遺跡とする根拠としては、最初に述べた『日本書紀』斉明六年五月条にある、中大兄皇子が初めて漏刻を作ったとするような記事について場所、年代ともに一致することや、遺跡全体に見られる施設の特徴が漏刻のそれとしてふさわしいものであり、何人かの研究者が唱えているような、漏刻は存在せずに石神遺跡に必要な水を送るための巨大な水槽が置かれていた跡とする説からでは水落遺跡の持つ特徴を十分に説明しきれないことなどから言えるものである。

水落遺跡は律令制がしかれるより前の時代の遺跡であるが、単に時刻を知らせるという行為はこの頃すでにあったようである。律令制下では漏刻博士(ろうこくはかせ)二人が維持・管理を行い、守辰丁(しゅしんちょう)二十人が時刻を読み取り時刻を報知していたことが史料からわかる。また、都の数々の門の開閉も漏刻で時刻を計ることで行われ、ここから都の官人の登退朝、京内の夜間外出禁止、市の開閉などと関連し、律令官人社会、京内の生活を大きく規制していたのである。

星総括

陰陽に関する技術や知識は大陸からの渡来人らによって伝えられた。それらをもとに天武朝において陰陽寮は成立した。そして、それらの技術が政治批判に繋がる恐れのあるものであったために、陰陽寮は秘密主義的な性格を持つにいたった。また政権担当者たちは、その陰陽寮の機能を掌握することによって、政治批判をコントロールしようとした。それが如実に現れたのが、橘諸兄と藤原仲麻呂の例である。文献面では以上のことが明らかになった。

考古学からは、漏刻が設置されていたとされる水落遺跡を検討した。それにより、陰陽寮中の役職である漏刻博士の技術職的な一面が明らかにされた。

以上は史学会古代史部会2005年度若木祭研究発表の概要である。

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