平成十六年度近世史部会発表概要

第一章

一、鷹
二、生類憐れみ政策

第二章

一、南部氏盛岡藩
二、鷹と諸鳥の献上

第三章

一、鷹の入手方法
二、藩内の鷹贈答
三、藩外の交流

てんとう第一章鷹に関する贈答儀礼と生類憐れみ

一、鷹

鷹は古来より、権威・権力の象徴とされてきた。それは、鷹そのものの持つ性質だけではなく、為政者が鷹支配権をほぼ独占し、他者へは許可なく鷹狩をすることを禁止してきたことなどが理由であろう。
鷹支配権の掌握は、鷹が生産される山野の支配をも意味し、鷹を用いての狩猟もまた、山野支配権と密着している。近世での鷹の位置づけは、将軍の武威を象徴するものとなり、鷹狩が行われる鷹場は、実際にそれを誇示する場所となった。
鷹狩をするには、将軍に代わって御鷹の鳥を確保する役割を果たす役人の存在が必要であり、それは、幕府の鷹関係の役人であるに違いない。彼らは将軍の鷹狩の補佐を務めるだけにとどまらず、幕藩間・幕朝間贈答儀礼を支える役割をも果たしたのである。
また、御鷹の鳥には鶴や雁、雲雀など様々な種類の鳥が見られ、その中でも最も格の高いものは鶴であった。幕府は鳥にランクづけをし、大名の家格によって下賜する鳥を定め、秩序体系を保ち、藩を統制する装置の一つとした。

二、生類憐れみ政策

「生類憐れみ令」というまとまった法令が出されたわけではなく、生類憐れみの趣旨を掲げ、あるいはその趣旨に沿った諸政策が、一括して生類憐れみ令と呼称されている。
生類憐れみの趣旨を打つ出した五代将軍綱吉は、将軍職就任直後から鷹制度の縮小策をとったことが認められ、その著しい例は天和二年(一六八二)三月の、御鷹関係役人の大幅な配置替えを行ったことである。『徳川実記』天和二年三月二十一日条によると、鷹関係役人計八十七人の配置替えを行った記述があり、その中には、小晋請組のように実際の役目がない職務への転出の例も多く、この配置替えは職務の増員の必要からとられた措置ではなく、鷹制度の縮小を意図して行われたものと言って間違いないであろう。
一般的に、生類憐れみ政策の始期は貞享四年(一六八七)年の正月の捨人・捨牛馬の禁止であるとされているが、貞享二年(一六八五)七月、将軍の御成の道筋に犬・猫が出ていても構わない(つないでおかなくてもよい)という命令が出されたのを、その出発とする見方もある。また、同年十一月には、鳥類・貝類・海老などを料理に用いることが禁止されている。
ところで、幕府が所有する鷹をことごとく放すことにより鷹制度が完全に廃止される元禄六年(一六九三)の後も、朝廷への鳥の献上は続けられている。朝廷への鳥献上は、鷹狩による狩猟権を公家に禁じ、将軍の占有するものとしたことと、武威を象徴するものであることの証として、対策上、朝廷への献上を継続しなければならなかったのだろう。

てんとう第二章盛岡藩から幕府への諸鳥献上

一、南部氏盛岡藩

鷹は出所地を限定される特産品的性格を持つので、鷹を産出する藩は、一定の時期に一定数の鷹を将軍に献上することが求められており、その大半は東北諸藩が産出していた。
今回対象とする生類憐れみ政策期の南部氏盛岡藩は、八万石の中藩であり(天和三年、十万石に高直)、名君とされる四代藩主重信の時代である。盛岡藩は、前藩主である三代藩主重直の、無許可で参勤に遅れ逼塞を命じられた。嗣子を定めぬまま死去するといった振る舞いで幕府からしてみれば、あまりおぼえが良いとは言えない藩であり、そのような背景で重信には盛岡藩の立場を好転させようする配慮が働いていたのではないかと思われる。

二、鷹と諸鳥の献上

天和二、三頃の盛岡藩が将軍に献上していたものの種類を、『邦国内貢賦記』にみることができる。
・若黄鷹:十四〜十五居
・巣鷹:十六〜十七居
・初鶴:三番まで
・初菱喰:二番まで
・初白鳥:一番のみなど
盛岡藩では、藩の鳥討役人が撃った鳥を江戸へ献上していた。しかし、生類憐れみ政策を幕府が施行するにつれ、各藩は鷹狩りなど表立った動物の殺生を控えるようになる。
『雑書』にみえる、盛岡藩のとった鷹制度の縮小の動きの初見は天和二年(一六八二)の鷹四十一居を放した記事である。その後、藩から幕府への献上は見られなくなる。しかし、元禄七年(一六九四)九月、幕府は盛岡藩に若隼二居の献上を命じ、盛岡藩はそれに即刻応じた。その後も何度か、幕府の要請により鷹を献上することが何度かあった。これは朝廷への献上に用いられたと考えられるが、詳細は不明である。
盛岡藩は、元禄八年(一六九五)飢饉に襲われ、参勤交代が免除されるほどであった。しかし、ここでも鷹関係への出費は続けられており、ここで矛盾が発生している。

てんとう第三章藩内の鷹贈答と藩主間の交流

一、鷹の入手方法

盛岡藩は他の藩にも鷹を供給していた。自分の領内に鷹の生産地を持たない藩では、盛岡藩のような鷹を産出する藩から進上あるいは購入、将軍から鷹を下賜されることによって、鷹を入手していた。近世社会において鷹を下賜される大名は少なく、名誉なことであったと同時に、鷹を下賜される大名にとって、その鷹は大きな経済的負担となる場合もあったが、鷹の拝領は臣従関係を示す象徴であり、特に下賜対象の限られる鷹は、他の大名との関係においても重要な拝領物であった。

二、藩内の鷹贈答

盛岡藩では当時の家老の三人である桜庭兵助・奥瀬冶太夫・漆戸七左衛門が鷂・児鷂の拝領を延宝五年(一六八〇)八月七日に受けている。ここで、桜庭は他の二人と別個に記載されており、同八年三月にも、藩主の御成に際して鷂一居を拝領している。ここから藩主は、将軍が下賜する回数、鳥の格や数に差異を持たせて大名の秩序を保ち統率したのと同じようなことを、藩内で行っていると考えられる。

三、藩外の交流

盛岡藩では、松前藩主が参勤交代のため盛岡城下に宿泊するたび、鳥を含む贈答品を互いに贈りあうことが恒例となっていた。松前藩主からの進物は、当代一の鷹産出藩であっただけに、鷹や鷲が目立つが、盛岡藩からも鷂が進上されている。しかし、松前藩とのやりとりは、生類憐れみの令によって、次第に減少していく。しかし、鳥類以外は変わることなく贈り合っていた。
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