平成十六年度中世史部会発表概要

少弐氏と日朝交易

1.はじめに
2.少弐氏通史
3.中世前期の大宰府と博多
4.室町期の九州探題、大内氏の博多支配と朝鮮交易
5.対馬と宗氏
6.まとめ

てんとう1.はじめに

中世の九州において、少弐・大友・島津の三氏は、鎌倉期に土着して以来九州において大きな勢力を誇った。このうち、島津氏は近世にいたっても全国に二番目に大きな大名として存続していき、大友氏も、主筋は滅亡したものの、分家は高家として近世にも残っている。しかしながらこの二氏と並び称される少弐氏の場合には一般的に知名度も低く、南北朝期以降は諸勢力との抗争により勢力が衰退していき、戦国時代に滅亡するに至っている。前記三氏のうち最も家格の高かった少弐氏がなぜ他の二氏のように勢力を維持することなく衰退していったのか、その理由の一端を少弐氏と日朝貿易の関わりからも見ていきたいと思うものである。
少弐氏と日朝交易については、「少弐氏の対朝鮮関係については別途考察しなければならない」【本多 1988】と、少弐氏について論じた論文にもかかれるように重要な問題でありながら、今までそれ自体を考察したものはないようである。そこで今回は、最初に、鎌倉期から滅亡時までの少弐氏のあらましを説明し、次に朝鮮との関係上最も重要な位置にあり、「少弐氏研究が対馬宗氏の研究と不可分のものである」【川添 1983】対馬について考察し、次に少弐氏の最大の抗争相手であった大内氏の対朝鮮政策を概観し、最後に当該期の博多の変遷から日朝交易の推移をたどっていくということをしたい。

てんとう2.少弐氏通史

少弐氏は、鎌倉時代初期に九州大宰府に下向した武藤資頼に始まり、その名は武藤氏が補任された太宰少弐に由来する。武藤氏は武蔵を本貫とする武士で、元々は平家の家人であったが捕らえられた。しかし故実に通じていることを頼朝に認められて家人となり、重用されるようになったという。彼のことが史料でみえてくるのは、文治年間(『吾妻鏡』文治五年正月十九日の条)からのことである。そして武藤氏の記述は建久六年(1195)から急になくなることから、この時期に武藤氏は九州へ下向したものと考えられている。
建久六年(1195)、鎮西奉行(注1)天野遠景の罷免後に武藤資頼は九州に下向。九州における武藤氏の権限は「1、大宰府の現地最高責任者、2、鎮西全般の訴訟準備手続きの権限、3、筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の守護」の3つであると言われている【佐藤 1943】。嘉禄二年(1226)には太宰少弐に補任、これは還補であると思われ、一度解官されたと考えられる。以降武藤資頼の子孫が太宰少弐に一度は補任されるようになり、いつしか少弐という官名を姓にするようになった。
十三世紀後半になると蒙古襲来の波が押し寄せ、九州の管轄を任せられている少弐氏は、石築地の造営、異国警固番役の遂行など現地最高責任者として指揮を執った。そして南北朝期になるとその地位は揺らぐ。少弐氏は、多々良浜の戦いにおいて足利方について勝利し、共に京に上った。しかし、その後九州の御家人統括の為に一色範氏を九州探題として置いたことから、在来の統括者である少弐氏は反発をし、以後九州探題と激しい抗争を続けることとなる。観応の擾乱が起こると、当初北朝側であった頼尚は下向してきた足利直義の養子の直冬を擁立し、九州は北朝方の探題、足利直冬、南朝側の懐良親王という三勢力が争い合うようになった。直冬は勢力を急速に拡大するものの直義の死去により後ろ盾を失うと文和元年(1352)長門へ去ってしまう。
その後少弐氏は南朝方に大宰府を奪われて一時豊後へ逃げ、応安四年(1371)に今川了俊が九州探題として下向すると、これにつき従い太宰府を回復する。しかし探題に反発的な少弐氏を快く思わない了俊によって少弐冬資は暗殺された。次いで応永二年(1395)に大内義弘の支援を受けた渋川満頼が九州探題として下向し、少弐氏と抗争を繰り広げた。このころより日朝貿易が盛んに行われるようになり、大内氏との日朝貿易の利権を有する博多をめぐる争いが勃発する。しかし少弐氏は敗戦を重ね、宝徳二年(1450)には肥前に逃亡、頼みとしていた対馬の宗氏にも見限られ、明応六年(1497)には大内義興が太宰大弐に補任されたことにより、名実共に九州における大内氏の優位が決定付けられる。そして永禄(1559)少弐冬尚が竜造寺隆信に攻められて自害、ここに少弐氏は滅亡する。

(注1)鎮西奉行…鎮西奉行については様々な議論が行われているが、現在は藤田俊雄氏「九州での地頭・御家人化政策と、それを遂行する上での太宰府国衙機構の掌握」という説が有力とされている。

てんとう3.中世前期の大宰府と博多

鎌倉期〜南北朝期にかけて、北九州の政治的中心は大宰府から博多へと移っていった。これを政治史と交易の流れとの関係で当該機の大宰府と博多を見てみたいと思う。
少弐氏が大宰府最高責任者として対外交易をある一定度掌握している段階、つまり現地最高責任者の役割を果たしている鎌倉中期において、少弐氏は太宰少弐という公的地位を背景に直接対外交易に関係していたと考えられている。実際に少弐氏は高麗からの倭寇襲撃の訴えに関して独自に処理を行っている。これは大宰府の対外交易上の立場、いうなれば現地最高責任者として、海寇行為を封じる必要があったからだ。さらに当時の大宰府に関して注目すると、少弐氏が発給した大宰府守護所牒というものがあり、ここから守護所というものが存在していることが分かる。史料上の初見は正治二年(1200)の「大宰府政所帖」(青方文書)であり、文永年間まで史料に登場していることからその時期まで存続していた可能性が考えられる。そして、その守護所の場所であるが最近の発掘調査によると大宰府の「御所ノ内」地区が有力視されている。さらに少弐氏の館とされる地区の近くには、少弐氏の外交相談役として密接に関係していた崇福寺があるということも興味深い。また博多に関しては、鴻臚館(注2)貿易を大宰府が管理していたことから少弐氏もそれを引き継いで管理していた可能性が強い。

(注2)鴻臚館…8世紀、唐や新羅からの貿易の窓口となっていた場所

少弐氏の北九州における優位を崩す画期となったのが、蒙古襲来に備えて設置された鎮西探題である。博多が重要な防衛ラインであるため、鎌倉幕府の統制は博多にも及んだ。鎮西探題は裁許権や異国警護の監督もしていたことから、少弐氏の保持していた権限は縮小し、そのまま九州の政治・外交の中心は大宰府より博多へと移行して少弐氏の勢力は後退することとなった。
南北朝期に入ると、少弐氏は九州探題という新たな存在との戦いで消耗していくこととなる。ここで倭寇と少弐氏の興味深い関連が見られる。まず足利直冬を擁していた観応元年(1350)ごろ、倭寇の高麗に対する襲撃回数の変化と直冬の勢力変動が連動しており、直冬と倭寇、少弐氏と倭寇の関連が指摘されている。さらに宮方から武家方に復帰をした延文三年(1358)に少弐氏の動きが一時活発になるが、それと呼応するように高麗への襲撃が増加し、大宰府陥落と共に小康状態になる。これも少弐氏と倭寇の関連が指摘されており、少弐氏は勢力が後退したことで、大宰府最高責任者として正規の貿易をするよりも、倭寇化をしていく中で活路を見出したとものと考えられている。

てんとう4.室町期の九州探題、大内氏の博多支配と朝鮮交易

少弐氏を取り囲む九州探題や大友・大内氏もまた、朝鮮との通交は倭寇の取締りを通じてさかんに行われていた。今川了俊は倭寇を取り締まることで朝鮮側に自らの優位を示した。渋川満頼・義俊は今川了俊以来の探題と朝鮮との特殊な関係を背景に通交許可の印を請うなど、積極的な活動を行った。探題の一族・被官・管下者らもさかんに通交を行っていた。
大友氏は博多息浜を領有し、永享元年(1429)に朝鮮に使節を送って以来、活発な貿易を行った。当初は大友氏とその家臣団の使者が多かったものの、次第に大友氏の名義を借りた博多商人による貿易へと変化していった。
大内氏は倭寇の取締りを通じて朝鮮と幕府とのパイプ役を務めるなど朝鮮から一目置かれており、後述する宗氏と並び絶大なる信頼を得ていた。さらに、交易の拠点となる博多を支配するために幕府から博多代官に任命されたり、朝廷から太宰大弐の位を得るなど中央の権威を利用していた。また、当時の貿易に深く関与していた禅宗寺院との交流を深めるなどして貿易を支配していった。しかしながら、後期倭寇などにより朝鮮側の貿易統制が厳しくなっていくうち、日朝交易自体が自然と縮小していった。

てんとう5.対馬と宗氏

宗氏は平知盛の末裔、安徳天皇の後裔とされているが、実際は対馬の在庁官人惟宗氏が祖である。十一世紀初頭、対馬は阿比留氏と呼ばれる在庁官人が支配してきた。しかし、十二〜十三世紀ごろの史料になると地頭代として惟宗氏が対馬を支配している記述が見られる。大宰府の在庁官人には惟宗氏という有力氏族が居り、この支流が対馬の惟宗氏であった。また、この史料からは武藤(少弐)氏とのつながりも窺われ、このことから惟宗氏は少弐氏(幕府)との繋がりを持つようになったことで、対馬における勢力の逆転に結びついたのではと考えられる。また、惟宗氏がなぜ宗氏を名乗ったかというと、元来在庁官人だった惟宗氏が地頭代も勤めるようになると、本来の在庁官人的な活動と武士的活動を区別するために名乗ったのだろうという説がある【長 1987】。
少弐氏と宗氏は、対馬の守護・地頭とその地頭代という関係からはじまった。そして蒙古襲来、南北朝の騒乱において少弐氏に従って転戦し、少弐氏から筑前の守護代に任じられるまでになった。そして、前述のごとく今川了俊が九州探題としてやってくると宗氏は対馬守護に補任され、対馬の支配権を名実共に認められる。しかし少弐氏はその後も対馬を自分の領有地とみなし、大内氏との争いで劣勢になると何度か対馬に逃亡し、宗氏を頼っている。宗氏の側としても少弐氏との関係により有している筑前・肥前を、少弐氏を奉じることで確保しておきたかった。しかしこれは北九州において有効な支配体制を確立しつつある大内氏と敵対せざるを得なくなり、もはや宗氏に寄生するだけの存在となった少弐氏を推戴するのは不利と判断し、文明十年(1478)少弐氏を離れ、大内氏と結ぶことになる。
また、朝鮮との通交を活発に行い、少弐氏の日朝貿易を手助けしていたのが宗氏であった。朝鮮は通交を許した相手に「図書」と呼ばれる銅製の印を与え、これを与えられたものを受図書人と呼び、宗氏は応永二十年(1420)にこれを得た。以降対馬の有力諸氏が図書を入手、さらに各地諸氏の受図書人の名義を対馬人が借りての貿易がさかんとなり、これが十六世紀における対馬人の朝鮮通交の独占に繋がっていった。

てんとう6.まとめ

少弐氏の日朝交易体制は、
1、鎌倉期は、大宰府の実質的長官として貿易を掌握できる立場にあり、高麗から海賊禁圧の要請を少弐氏が処理しているなど、独自の体制を保持している。
2、しかし、蒙古襲来の結果、鎮西探題が設置されると、少弐氏が本拠地としていた大宰府から、九州の政治の中心が探題のある博多へと移ってしまう。このことは、大宰府の管理下にあった博多が探題の管轄となってしまい、貿易港である博多が少弐氏の手から失われることとなってしまう。
3、南北朝期には、推定であるが、少弐氏の配下が倭寇となって朝鮮半島を襲った可能性が指摘されている。特に、14世紀後半には倭寇の被害が非常に大きくなり、高麗・朝鮮は征西府や足利幕府、九州探題に倭寇の禁圧を求めてくる。その結果、
4、朝鮮通交体制は、倭寇の禁圧を第一の目的としたものとなり、対馬や北九州諸氏や幕府・寺社との多元的な通行体制が現出する。そのなかで、少弐氏・探題・大友氏・大内氏らは博多の掌握にしのぎを削ることとなるが、少弐氏と他氏と違う点は旧来から主従関係にあった宗氏を頼り、対馬を拠点としていたところである。大内氏により筑前から追われた結果そうなったのであるが、しかしそれは、宗氏に寄生したものであり、宗氏が少弐氏の劣勢を見極めると肥前へと退転していくこととなってしまう。
結局のところ、太宰少弐として古代大宰府の後継者も兼ねている、という地位が少弐氏の立場を他よりも優位なものとしたが、逆にそれゆえに武家政権の出先機関である鎮西・九州探題とは相容れずに抗争を重ねていった。それが幕府に討伐の口実を与えることとなり、それを利用した大内氏に北九州において有利な地盤を築かせてしまうことにつながった。外国からは大宰府が唯一の外交管理窓口であるとの認識が成されていたが、実際のところ朝廷には外交処理能力がなく、蒙古襲来を経て武家政権が外交権を接収していくことになる。そういった中、少弐氏は名のみとなった「大宰府」の「少弐」であって、武家政権により探題が置かれ、その下に立たざるを得なくなる。その探題との抗争も幕府の意向にかかっていたということは、やはり、武家政権が朝廷を乗り超えていくことと同様のものとして捉えられるのではなかろうか。「少弐氏と日朝交易」からはそういった公武関係の相克が浮かび上がってくるのではないだろうか。

※「少弐氏と日朝交易」をご覧になった皆様

これはHP用に大部分を要約しました。しかし実際の研究はこれより詳細なものとなっていますので、若木祭にて実際に研究成果を見て頂ければと存じます。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送