少弐氏を取り囲む九州探題や大友・大内氏もまた、朝鮮との通交は倭寇の取締りを通じてさかんに行われていた。今川了俊は倭寇を取り締まることで朝鮮側に自らの優位を示した。渋川満頼・義俊は今川了俊以来の探題と朝鮮との特殊な関係を背景に通交許可の印を請うなど、積極的な活動を行った。探題の一族・被官・管下者らもさかんに通交を行っていた。
■大友氏は博多息浜を領有し、永享元年(1429)に朝鮮に使節を送って以来、活発な貿易を行った。当初は大友氏とその家臣団の使者が多かったものの、次第に大友氏の名義を借りた博多商人による貿易へと変化していった。
■大内氏は倭寇の取締りを通じて朝鮮と幕府とのパイプ役を務めるなど朝鮮から一目置かれており、後述する宗氏と並び絶大なる信頼を得ていた。さらに、交易の拠点となる博多を支配するために幕府から博多代官に任命されたり、朝廷から太宰大弐の位を得るなど中央の権威を利用していた。また、当時の貿易に深く関与していた禅宗寺院との交流を深めるなどして貿易を支配していった。しかしながら、後期倭寇などにより朝鮮側の貿易統制が厳しくなっていくうち、日朝交易自体が自然と縮小していった。
5.■対馬と宗氏
■宗氏は平知盛の末裔、安徳天皇の後裔とされているが、実際は対馬の在庁官人惟宗氏が祖である。十一世紀初頭、対馬は阿比留氏と呼ばれる在庁官人が支配してきた。しかし、十二〜十三世紀ごろの史料になると地頭代として惟宗氏が対馬を支配している記述が見られる。大宰府の在庁官人には惟宗氏という有力氏族が居り、この支流が対馬の惟宗氏であった。また、この史料からは武藤(少弐)氏とのつながりも窺われ、このことから惟宗氏は少弐氏(幕府)との繋がりを持つようになったことで、対馬における勢力の逆転に結びついたのではと考えられる。また、惟宗氏がなぜ宗氏を名乗ったかというと、元来在庁官人だった惟宗氏が地頭代も勤めるようになると、本来の在庁官人的な活動と武士的活動を区別するために名乗ったのだろうという説がある【長 1987】。
■少弐氏と宗氏は、対馬の守護・地頭とその地頭代という関係からはじまった。そして蒙古襲来、南北朝の騒乱において少弐氏に従って転戦し、少弐氏から筑前の守護代に任じられるまでになった。そして、前述のごとく今川了俊が九州探題としてやってくると宗氏は対馬守護に補任され、対馬の支配権を名実共に認められる。しかし少弐氏はその後も対馬を自分の領有地とみなし、大内氏との争いで劣勢になると何度か対馬に逃亡し、宗氏を頼っている。宗氏の側としても少弐氏との関係により有している筑前・肥前を、少弐氏を奉じることで確保しておきたかった。しかしこれは北九州において有効な支配体制を確立しつつある大内氏と敵対せざるを得なくなり、もはや宗氏に寄生するだけの存在となった少弐氏を推戴するのは不利と判断し、文明十年(1478)少弐氏を離れ、大内氏と結ぶことになる。
■また、朝鮮との通交を活発に行い、少弐氏の日朝貿易を手助けしていたのが宗氏であった。朝鮮は通交を許した相手に「図書」と呼ばれる銅製の印を与え、これを与えられたものを受図書人と呼び、宗氏は応永二十年(1420)にこれを得た。以降対馬の有力諸氏が図書を入手、さらに各地諸氏の受図書人の名義を対馬人が借りての貿易がさかんとなり、これが十六世紀における対馬人の朝鮮通交の独占に繋がっていった。
6.■まとめ
■少弐氏の日朝交易体制は、
■1、鎌倉期は、大宰府の実質的長官として貿易を掌握できる立場にあり、高麗から海賊禁圧の要請を少弐氏が処理しているなど、独自の体制を保持している。
■2、しかし、蒙古襲来の結果、鎮西探題が設置されると、少弐氏が本拠地としていた大宰府から、九州の政治の中心が探題のある博多へと移ってしまう。このことは、大宰府の管理下にあった博多が探題の管轄となってしまい、貿易港である博多が少弐氏の手から失われることとなってしまう。
■3、南北朝期には、推定であるが、少弐氏の配下が倭寇となって朝鮮半島を襲った可能性が指摘されている。特に、14世紀後半には倭寇の被害が非常に大きくなり、高麗・朝鮮は征西府や足利幕府、九州探題に倭寇の禁圧を求めてくる。その結果、
■4、朝鮮通交体制は、倭寇の禁圧を第一の目的としたものとなり、対馬や北九州諸氏や幕府・寺社との多元的な通行体制が現出する。そのなかで、少弐氏・探題・大友氏・大内氏らは博多の掌握にしのぎを削ることとなるが、少弐氏と他氏と違う点は旧来から主従関係にあった宗氏を頼り、対馬を拠点としていたところである。大内氏により筑前から追われた結果そうなったのであるが、しかしそれは、宗氏に寄生したものであり、宗氏が少弐氏の劣勢を見極めると肥前へと退転していくこととなってしまう。
■結局のところ、太宰少弐として古代大宰府の後継者も兼ねている、という地位が少弐氏の立場を他よりも優位なものとしたが、逆にそれゆえに武家政権の出先機関である鎮西・九州探題とは相容れずに抗争を重ねていった。それが幕府に討伐の口実を与えることとなり、それを利用した大内氏に北九州において有利な地盤を築かせてしまうことにつながった。外国からは大宰府が唯一の外交管理窓口であるとの認識が成されていたが、実際のところ朝廷には外交処理能力がなく、蒙古襲来を経て武家政権が外交権を接収していくことになる。そういった中、少弐氏は名のみとなった「大宰府」の「少弐」であって、武家政権により探題が置かれ、その下に立たざるを得なくなる。その探題との抗争も幕府の意向にかかっていたということは、やはり、武家政権が朝廷を乗り超えていくことと同様のものとして捉えられるのではなかろうか。「少弐氏と日朝交易」からはそういった公武関係の相克が浮かび上がってくるのではないだろうか。
※「少弐氏と日朝交易」をご覧になった皆様
■これはHP用に大部分を要約しました。しかし実際の研究はこれより詳細なものとなっていますので、若木祭にて実際に研究成果を見て頂ければと存じます。