平成十六年度古代史部会発表概要
はじめに
1、薄葬の意が表れない時期(天武天皇まで)
2、薄葬の意が表れ、多様化する時期(持統〜淳和天皇まで)
3、形式化する時期(仁明〜後一条天皇まで)
おわりに

てんとうはじめに

平成十六年度古代史部会研究発表は「古代天皇における喪葬儀礼の変遷について」である。
研究目的は古代の天皇(天武天皇〜後一条天皇まで、時代で言うと、奈良〜平安初期)の喪葬儀礼を調べ、喪葬儀礼の転換期や、どう変化していったのかを知っていくことである。

喪葬儀礼の時期的な特徴として、3つ挙げられる。
1、薄葬の意が表れない時期(天武天皇まで)
2、薄葬の意が表れ、多様化する時期(持統〜淳和天皇まで)
3、形式化する時期(仁明〜後一条天皇まで)
である。

てんとう1、薄葬の意が表れない喪葬儀礼について

天武天皇の頃の喪葬儀礼の特徴は殯である。
殯とは喪葬の対象となる故人(この場合は天皇)が死んでから埋葬するまでの間、殯宮に遺体を安置し、その期間に発哀・奉楽歌舞・誄・奠・素服・国忌などの儀礼を行うことである。天武天皇の殯期間は2年2ヶ月間続き、その間は上に上げたような殯儀礼が行われ、大掛かりであった。

てんとう2、薄葬の意が表れ、多様化する時期

天武天皇までの大掛かりな殯儀礼が変化し始めるのは次の持統天皇からである。持統天皇は素服、発哀、国忌を停止し、喪葬は倹約しなさいという「薄葬の遺詔」(『続日本紀』大宝二年十二月甲寅条)を出される。薄葬が行われたのは初めてである。
多様な喪葬儀礼として挙げられるのはまず、持統〜元明天皇の4代にわたる火葬の始まりである。火葬は薄葬の1部として考えられるが、まだ定着せず、元明天皇の後は淳和天皇まで土葬が続いている。
次に殯期間の短期化があげられる。持統天皇は約1年、文武天皇は約5ヶ月なのに対して元明天皇はわずか6日である。その後も殯期間は非常に短い。それは、殯、埋葬で喪葬儀礼の終了から、埋葬したあと服喪するというふうに変化したのである。
そして、元明天皇崩御時より固関が開始されているということがあげられる。固関は謀反などの事変が起きた時や天皇の不豫や崩御、譲位などの大事が起こったとき、三関を閉め、謀反を企てた者を東海・東山・北陸の三道のいずれかを通って東国に奔走するのを防ぐことである。天皇の崩御時に固関をすることは、政治が不安定で、謀反などが起こりやすいからであろう。

てんとう3、形式化する時期

平安時代に入り、多様化していた喪葬儀礼は形式化してくる。まず、9世紀後半〜11世紀前半(仁明〜三条天皇まで)に見られる特徴は、天皇と太上天皇とで喪葬の方法が違うのである。
まずは固関だが、天皇が崩御した場合は即日に固関が開始されるが、太上天皇の場合は数日たってから開始される。次に葬法は天皇の場合、土葬され、山陵が造営されるのに対し、太上天皇の場合は火葬され、山陵は造営されないのである。
また、素服や発哀などの殯儀礼も、天皇はおこなわれるが太上天皇はおこなわれなくなる。天皇と太上天皇で喪葬儀礼が違うのは天皇と太上天皇の性格自体が変わってきたからであろう。
次に、固関の儀式化があげられる。奈良時代では軍事的要素を含んでいたが平安時代にはいると三関だけでなく、他の要所の警固をともなってはじめて軍事的威力を発揮している。これは三関の軍事的機能が低下していること示し、固関が儀式化したといえる。
11世紀後半以降(後一条天皇以降)は天皇として崩御しても太上天皇としての喪葬儀礼がおこなわれることである。後一条天皇以降の天皇は崩御しても「如在之(にょざいの)儀(ぎ)」が成立し、新天皇に譲位し太上天皇としての喪葬儀礼が行われるのである。「如在之(にょざいの)儀(ぎ)」とは肉体の死が認められず、社会的には生きていることである。つまり、天皇としての死が認められず、天皇としての喪葬儀礼は行われなくなったということである。

てんとうおわりに

以上にあげたように3つ時期にわけて調べてきたが、豪華で華美な喪葬儀礼から、だんだんと簡素化していくことがわかる。そしてその簡素化する転換期は喪葬儀礼の多様化が目立つ時期であり、持統天皇の「薄葬の遺詔」が1つのきっかけだったのであろう。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送